新明和とダンロップ
川西竜三の死 新明和、水上機にねらい “合議制” で再出発
信用のない悲しさ飛行艇PS−1の完成ダンロップ経営不振に英国商法の破綻
英国商法の破綻住友電工が資本参加住友ゴムの誕生石油化学と神鋼ファウドラー
川西竜三の死

三十一年一月二十四日の早朝、一人の男が、静かに息を引き取った。遺言は、何もなかった。ただ、かたわらの妻に向かって、
「お前の事は、子供たちが大事にしてくれるよ」
と、言ったという。
川西竜三──。父清兵衛が意地と情熱を注ぎ込んだ飛行機事業を引き継いだのが、二十九の年。以来三十年余りの歳月は、まさに飛行機一筋だった。
「紫電改」 や二式大艇など、世紀の名機を世に出した過去の栄光はあっても、晩年は不遇としかいいようがない。
新明和工業の社長として、いま一度飛行機づくりを志したものの、確かな見通しもつかね時期の死であった。
竜三が死んだちょうどその日、常務の河野博 (当時) は横須賀で米軍相手に最後の折衝に入っていた。飛行機事業再開の手掛かりとして、竜三自身が異常なまでの情熱を燃やしていた米軍機のオーバーホール契約の詰めであった。
つおにOKが出た。総額1万5千ドル。この種の契約としては、さほど大きなものではなかったが、新明和にとっては始めての収穫であった。
その足で、河野は大阪へとってかえした。そして竜三のいる阪大病院にかけ込んだが、後の祭りだった。
「せめて生きている間に報告したかった。どれほど喜んでくれたか・・・・」
河野はいまだに、そのことが悔やまれるという。

戦後の混乱期、其れに続く復興期は誰もが苦労したものだが、竜三も人一倍、苦労の連続であった。
戦後、飛行機一筋の川西を待ち受けていたのは、航空機製造禁止令である。死刑宣告に等しい措置であった。
残された従業員は3千5百人。なんとかして彼等を食わせていく必要があった。竜三は各工場ごとに “現地自活” を命じた。手元にある材料や設備を活用して、何でもいいから作って売れ、というのである。
例によってナベ、カマのたぐいから始めた “現地自活” だったが、二十年代も半ばを過ぎた頃には、それぞれに格好がついてきた。
さすが飛行機で鍛え上げた技術というべきか。中でも宝塚工場で始めたオートバイが爆発的な評判を呼んだ。性能も良かったが、市場では 「飛行機会社のつくるオートバイだから」 という訳で、信用されたのだろう。商標の 「ポインター」 が、いつの間にやらオートバイの代名詞になるほどの人気だった。
しかし、竜三はオートバイが一番のお気に入りだった。小さいがシャープなこの乗り物は、どこか飛行機に通じるイメージを持っていた。あるいは、優秀なエンジンを多く手がける事によって、いつの日かの飛行機づくり再開に備えて技術温存が図れるという思いがあったのかも知れない。

そんな竜三のもとへ、思いがけず飛行機の仕事が舞い込んだ。
25年6月、朝鮮動乱が勃発した。これの伴い、米軍から戦闘機用の燃料タンクの特需がきた。飛行機の仕事には違いないが、直径50〜60センチの何の変哲もない砲弾型のタンクである。それでも、飛行機に飢えていた技術屋たちは飛びついた。飛行機の匂いをかぐだけで幸せ、というような連中ばかりなのだ。
喜々として単純な作業にいそしむ飛行機屋たちを見て、竜三の心境は複雑だった。
「ウチには飛行機しかわからん人間がぎょうさんおる。これをなんとかせんと、わしの責任は果たせんのや」
周囲に、そうもらし始めた。
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新明和、水上機にねらい
燃料タンクは、甲南工場でつくった。単純な代物とはいえ、飛行機関係の仕事に違いない。
この特需は、苦しい新明和の台所を潤したばかりでなく、各地に散り散りになっていた飛行機屋たちを甲南工場に結集させる役目を果たした。
集まれば、当然、飛行機の話に花が咲く。戦前、数々の名機を送り出した誇りと栄光。それにひきかえ、今日のザマは──。
もちろん竜三とて、燃料タンクごときで満足しているわけではなかった。竜三の夢は、あくまでいま一度飛行機をつくることであり、 「飛行機しかわからん人間」 たちにその夢を分け与える事であった。それに、特需そのものがいつまでも続くというものでもない。

サンフランシスコで条約が結ばれ、すでに飛行機の製造が解禁になっていた。
竜三は社内に 「航空委員会」 というものを設け、自ら委員長の席に座った。何としても今一度、自らの手で飛行機を飛ばすんだ、という意思の表明であった。
委員会には 「紫電改」 「二式大艇」 の設計者、菊原静男の顔もあった。菊原は海外の航空文献をむさぼり読んでは、若い技術者に 「ここを読んでおけ」 と回覧させた。なにしろ十年近いブランクがある。当面は、ひたすら充電を図る必要があった。
しかし竜三は口では 「初めから飛行機がやれると思うたら間違いやぜ。そんなの簡単にはいかんぞ」 と、まわりを引き締めた。まわり、というよりは、自らにいい聞かせていたのかも知れない。

夢は夢として、現実は戦前とは段違いに厳しいものがあった。
竜三は確かに新明和の社長ではあったが、会社はもはや川崎家のものではなかった。戦前に海軍から来ていた副社長が土地などの不動産を買いまくったおかげで、多額の借入金が生じていた。その返済のため、新明和の株式は三和銀行に65%、興業銀行に20%渡っていた。
戦前、竜三はケチで通っていたが、飛行機開発に必要な資金の出し惜しみはしなかった。しかし、いまとなっては、ケチでなくても肝心の金がない。勝手気ままに会社を動かせた戦前とは立場が違っていた。
自らを戒めながら、竜三は考え続けた。すでに川崎などはヘリコプターに手をつけ始めていた。社内の飛行機屋たちの中には、ヘリをやったらどうか、という意見もあった。だか待てよ。三菱や川崎などと違って、いまの新明和の実力では、通りいっぺんのものをやってもしようがない。サナ場を狙う必要があった。
新明和の特色といえば飛行艇、すなわち水上機であった。この点では二式大艇の実績があった。戦後に開発された米国の水上機 「マーチンP5M」 でさえ、速度、航続距離をはじめ、どれをとっても二式大艇に及ばなかった。竜三がやるとすれば、これしかない。

ル優は、それだけではなかった。鋳造は、単なる飛行機バカではない。ケチであるだけに、当然ながら損を嫌った。
「日本は海に囲まれている。水のあるところならどこでも使える水上機なら、将来あらゆる用途が期待できる。つまり、損をしなくてすむ。社長以下、開発機種を水上機にしぼった裏には、そんな計算があった」
と、河野博はいう。
さて、いよいよ本格的に飛行機をやるとなると、技術の習得が先決だ。オーバーホールがなによりの勉強であった。竜三は再三、米軍にオーバーホールの仕事を回してくれるようかけ合った。
だが、最初のオーバーホールの注文は新三菱、川崎、昭和の三社に決まる。新明和は、はずされたのである。
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“合議制” で再出発
理由は簡単だ。旧鳴尾飛行場が米軍に接収されており、新明和には飛行場に接した工場がなかったのである。
工場がなければ、仕事が回ってこないのは当たり前だ。なにはともあれ、飛行場近くに新工場を設置する必要があった。
多少の出費は覚悟の上だ。飛行機づくりを再開するためには、オーバーホールの仕事は、是非やっておかねばならない関門のようなものだった。
候補地としては伊丹と八尾があったが、結局、伊丹に決まった。その時、竜三から伊丹空港隣接地の買収を命ぜられたのが立野良郎である。
「当時は日本政府と米軍との間に基地拡張の約束が交わされていましてね。私が行くと、新明和の名を語って基地拡張をするんじゃないかなどと勘ぐられましたねえ」
だが、立野らの努力によって、買収はスムーズに運ぶ。
早速、格納庫も建設し、受け入れ態勢は完了した。

竜三の米軍参りが始まる。立川へ、厚木へと労をいとわずに足を運んだ。
このときの無理がたたったのかもしれない。健康には自信のあった竜三だが、そのころから、体の不調をおぼえるようになった。ある夜、東京で開かれた米軍高官の歓迎会に出席した後、高熱を出して倒れた。
病床で、切歯扼腕の毎日が続いた。何ともタイミングの悪いときに病魔に襲われたものである。だが、竜三が蒔いた種は、常務の河野らが懸命に育て、ようやく花を咲かせた。その最初の花を見ることもなく、竜三は不帰の人となった。

あとをどうするか──緊急を要する問題であった。
専務の古河滋、常務の河野、宮原勲の三人による鳩首会談が続けられ、その結果、当面社長は置かず、三人に取締役二人を加えた五人による合議制でいこうということになった。
竜三の存在が大きすぎた。跡を襲うには三人とも若すぎたし、飛行機という大きな仕事をしていくには、全員が力を合わせると言う体制を残していく方が好都合でもあった。
川西家から人物を派遣する、という話も出た。資本はすでに川西家から離れていたが、事業は川西家のものであるという考えだ。しかし、この話にも無理があり、川西家の大番頭で、当時大和製衡の社長をしていた井上治朗を相談役として迎えることで落ち着いた。

伊丹では、竜三が生前、あれほど執念を燃やしたオーバーホールの仕事が始まった。その一方で、甲南工場では飛行機の研究が地道に進められた。だが、風洞や水槽などの研究設備は何もない。飛行機屋たちは、ツテを頼って運輸省や自衛隊が持っている設備を借りて歩いた。
このころ、P2V哨戒機を国産化する話が具体化した。
すでに三菱、川崎などのメーカーは、それぞれ戦闘機、練習機の生産にかかっていた。P2Vは残された新明和に回って来るのが当然──と社内でも業界でも考えられていた。新明和も、飛行機と並行して、P2Vの研究を進め、いつでも引き受けられる態勢は整えていたのだった。
ところが、あけてびっくり、とはこのことだろう。32年12月、政府がP2Vの生産に指定したのは新明和ではなく川崎だった。
「九割方ウチに来る、と思っていたのでねえ。信じられないというか、ガク然としたのを覚えている」
と、河野は言う。
元来、川西は技術はいいが、政治的動きの出来ない会社だった。おまけに、資本金も9千万円と小さい。社長も不在だ。そんな会社に、総額3百億円にのぼる大仕事は任せられない──というのであった。
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信用のない悲しさ

P2V哨戒機を取り逃がした事は、新明和の経営陣には一大ショックだった。竜三亡き後、良かれと思って採用した合議制による経営が、結果としては裏目に出た格好である。
古河、河野らは、改めて竜三の大きさを思い知らされた。
もっとも、仮にこの時にP2Vを受注していたら、飛行艇の開発は中止になっていただろう、と立野は振り返る。
「当時のウチの規模、総合的な実力から見て、P2Vも飛行艇もという “両手に花” は、とても許されなかっただろう」

それはさておき、一敗地にまみれた古河ら新明和の経営陣は、現状のままでは、もはや飛行機づくりは難しい、と考え始めた。
技術はある。しかし、会社としての信用、これがない。バックボーンになってくれる相手が必要だった。
「飛行機を目指す以上、信用できる大きなところと提携していくよりしようがない。そういう結論になって、いい相手を物色する事にした」
と、河野は言う。
そんな時、P2Vを受注して勢いに乘る川崎航空機から 「一緒にやらないか」 という話が持ちかけられた。
河野たちは即座に断った。航空機だけなら話は別だが、機械やモーターサービスの部門はどうなるのか、懸念があった。航空機にしても、新明和は戦前から海軍系であったのに対し、川崎は陸軍だった。
決定的なのは銀行系列が異なっている事だ。新明和は三和、川崎は第一。メーンバンクであり過半数を握る大株主である三和も、これには反対の意向だと言う。話はまとまりようがなかった。
関西の鉄鋼メーカーから 「甲南工場を譲ってもらえないか」 という打診もあった。その代わり、伊丹をうんと拡張しましょう、という。資金的には楽になるし、銀行も色気を見せたが、社内が承知しない。甲南工場を失うことは、飛行艇の開発を諦める事に繋がるからだ。

そうこうするうちに、もと海軍の将官で、新明和の顧問をしている男が、日立製作所との話を持ち込んできた。
この話はトントン拍子に進んだ。
「日立なら、という感じでしたねえ。日立も三和とは関係があるし、飛行機で伸びていく為のバックボーンとしては、申し分のない相手だった」
と、河野は述懐する。
提携が決まった。これで、会社としての信用も増す。何よりも良かったのは、日立の幹部は飛行機づくりに理解があったことだ。飛行機屋たちも、これで安心して飛行艇に開発に没頭できるというものである。
古河、河野ら経営陣の腐心をよそに、飛行艇開発は着々と進められていた。

開発すべき飛行艇はPX−Sと名付けられていた。PはパトローのP、Xは未開発、未知数を示すXで、Sはシープレーン、つまり水上機である。次期哨戒飛行艇とでも訳せばいいのだろう。
このPX−S構想に対しては、国内より米国で評判が高かった。戦前二式大艇の出来栄え、性能のよさを、彼等はよく知っていた。物心さまざまな形の応援が、新明和に寄せられた。
「実験機を一から作っていくのでは金がかかるだろう」
と、米海軍がグラマンUF飛行艇を提供してくれた。これを母体に、あとはPX−Sの設計図に沿って改造すればよかった。
飛行機の技術者同士はには、国境や会社を越えた不思議な連帯感、仲間意識があるという。新明和の飛行機屋たちは、海を越えた友情に泣いた。
甲南工場で、早速改造に取り掛かった。主翼や艇体を長くし、エンジンも双発から四発へ改造した。一年半の後に、改造を加えたUF−XSが完成する。
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飛行艇PS−1の完成

PS−Sの開発に当たって、新明和の技術陣が一番心を砕いたのは、波との戦いであった。
水上機が陸上機ほど普及しない背景には、年間30〜35%の期間しか使えないという欠陥があった。少し波が高いと、着水が出来ない。世紀の傑作機とされている二式大艇ですら、波には弱かった。
二式の任務は索敵、哨戒だったが、当時は波の高い海面に降り立つ必要性は、さほどなかった。しかし、これから開発にかかるPX−Sは、そうはいかぬ。
救難用、あるいは離島間輸送に用いるとすれば 「波が高くて着水できない」 では、話にならない。自衛隊では対潜哨戒用に使うにしても、より効果を高めるためには着水性能が問題になる。

当時、世界に航空界はジェット機時代に突入し、あげて音速の壁に挑戦していた。これに対し、新明和が挑むのは、波のカベであった。
波との戦いは、煎じ詰めれば艇体と低速運転の問題であった。水の抵抗ができるだけ少なく、かつ飛行中のエンジン高率がいいのはどんな艇体か。
低速運転の問題というのは、80〜90ノットで着水すれば、着水の際に激しい衝撃を生じ、期待が破損する懸念がある。それを避けるには、50ノット程度でゆっくり着水できる工夫が不可欠であった。
米国から提供されたグラマンUF飛行艇を改造したUH−XSには、こうした研究の成果がすべて盛り込まれた。
縦揺れに強い、長い艇体。低速を保つための広い翼面積。着水時の波消しには、艇底に水切りのためのステップ (切り込み) が採用された。

胸おどる瞬間が、ついに来た。
UF−XSが甲南工場の沖合いに浮んだのは、37年12月、クリスマスの日であった。
関係者が見守る中で、UF−XSは軽々と飛び上がり、正確に着水した。完璧のテストであった。
「確信はありました。しかしその反面、飛んでくれるかなあ、という不安もあった。なにしろ技術陣も現場も、主力は戦後派だった。うまくいった時は、さすがに嬉しかったですねえ」
と言うのは、当時の技術部長大沼康二。
UF−SXは、実は実物の四分の三モデルで、PX−Sをつくるための、一ステップであった。だが、四分の三とはいっても、ほぼ実物に近い。だからこの成功は、PX−Sの成功を意味した。UF−SXは社内試験の後、海上自衛隊に引き渡された。そこでもあらゆるテストが繰り返されたが、いずれも期待通りの成果を収めた。

UF−SXの成功で、PX−Sを二機詩作するための予算が計上された。甲南工場でいよいよ本格的な生産が開始されたのは40年4月。新明和一社でやるべきではない。よいうわけで、日本飛行機、富士重工がチームに加わった。新明和は艇体と最終組み立てを担当した。
PX−Sの詩作第一号機が完成するのは、42年10月。世界に例のない大型の飛行艇の誕生であった。この時点で未開発のXはとれ、PS−1と呼ばれるようになった。

PS−1は、自力で格納庫から海に入り、自力で上陸できる脚を備えていた。それまでの飛行艇が、海に入る時、台車に乗せてロープで引っ張っていたのとは大違いだ。その後、この脚は更に改良され、水面だけでなく陸上にも降りる事が出来るようになった。水陸両用機として、用途が更に広がったわけである。
PS−1 (その後開発された水陸両用の救難艇はUS−1) は、これまでに23機製造された。
川西竜三がそうであったように、飛行機に取り付かれた若い技術陣は、またまた次なる飛行艇に夢を馳せていると言う。
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ダンロップ経営不振に

三十二年の暮れ、日本のゴム業界の草分け、日本ダンロップでストライキが発生した。
戦後初めて、というより、大正末期の大争議以来というから、実に三十四年ぶりのことである。
ストそのものは、一日か二日で決着がついた。その限りでは、何でもない労使間の小さなトラブルのようだが、どのストは外見に似ぬ重大な意味を含んでいた。
発端は、会社が示したこの年の年末一時金の金額が、前年実績を割り込んだ事だった。
この年は “神武景気” といわれた、爆発的なブームの年であった。これほどの好景気に、なぜボーナスが前年より少ないのか、組合は理解に苦しんだ。
いまひとつは、ダンロップといえば当時の神戸地区では給与が高い事で有名だった。賃上げやボーナス期ごとに新聞にランキングが載ったが、ランロップはいつもトップの座を占めた。それが、この年に限って他社より低い。
「会社はいよいよ低賃金策を押し付けてきたか」
労組がそう思うのも、無理は無かった。知る限りではボーナスが減る理由など、さっぱりない。ここは一番ストライキを構えて会社と対決しよう、というわけである。
ところが、会社にしてみれば、それだけの理由は十分すぎるほどあった。比較的順調だった業績が、急速に悪化をきたしていたのである。

問題は、そんな経営の実態が外部はおろか、社員にすらわからないという秘密主義にあった。
当時の日本ダンロップは、100%英国の企業だった。主なポストはみな英国人が占めていた。彼等は日本社員に、いちいち業績などを説明したりしない。
ストという事態になって、あわてて実情を説明したが、これで納得せよという方が無理である。組合は猛然と経営陣を追及した。
「ワタシハ、実ニ残念デス」
工場担当重役C・H・ウッドワードは団交の席上、こう言って涙を流したという。
ウッドワードは25年に日本ダンロップに派遣されてきたのだが、なかなかの日本びいきだった。日本人労働者に対する理解も深く、27年には 「英国がそうだから」 と、六十歳定年を実施したりしている。それだけに、会社の窮状に際しストをもって対抗された事が、なんとも口惜しかったのだろう。

それはともかく、ストがきっかけで明らかになった経営の実態は、ただならぬ問題をはらんでいた。
空前のの好況にもかかわらず、業績が悪化する一方という不可解な経営体質、言い換えれば、高度経済成長に乗り切れない経営体質が、はげしく露呈されたのだ。いったい、何が原因なのか。
同社相談役井上文左衛門によると──
「借金をしてでも設備を次々と更新し、コストを下げていくという日本流の高度成長時代の経営に、つkていけなかったということだろう」
タイヤ業界に限らず、このころの日本の企業は、自己資産をはるかに上回る借金をし、設備投資を断行した。超新鋭の設備によって生産性を向上し、その利益で借金を返せばいい、という、いわば利益の先取り策だ。異教的、とまで言われた高度成長の秘密でもある。
英国人である日本ダンロップ首脳には、こういうやり方がどうにも理解できなかったらしい。設備投資をするについても、あくまで利益の範囲内でやった。このため、国内の競争相手との間に設備の格差が目立ってきた。
世間の景気がよくなれば、それだけジリ貧になる、という訳である。
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英国商法の破綻

“日本流の借金経営にはついていけない” というより、そんな経営は邪道であると信じて疑わない英国商法。破綻は目に見えていた。
建設当時は世界でも最新鋭の工場だった神戸工場だが、このころではすっかり旧式になっていた。
機械は小さく、おまけに古い。中には、英国で使い古したものを持ち込んだものもあった。空間をうまく活用した立体構造の工場レイアウトも、製品が大型化するにつれて、かえって効率が悪くなってきた。
だが、不振の原因はそればかりではなかった。
たとえば、言葉の問題があった。
社内の会議はもちろんのこと、文書も何も全て英語だった。英国の会社である以上、当然といえば当然だが、社員の90%が日本人である。コミュニケーションがいまくいかない。工場の主任あたりが何か提案や改善の要請をしても、英語でピシャリとやられれば、二の句がつげない。
英語に堪能な日本人社員が重宝がられるのは無理のないことにしても、実力のある人間が、あたら言葉が出来ないばかりに埋もれてしまう例もしばしばだった。これでは不平、不満がこもる。

言葉の障害は社内だけに限らなかった。外部への注文伝票などもすべて英文だったから、取引先は往生したという。ここころの社長G・O・サフェリは、業界の集まりにも進んで顔を出したのはよいが、言葉が通じない。英語のできる重役を通訳代わりに同行するが、意思疎通には時間がかかり、突っ込んだ話が出来ない。
時代のテンポがのろい時代であれば、それでもよかった。しかし世は何事もスピードをむねとする高度成長時代である。タイヤのシェアもズルズルと後退を続け、戦後のひところの20%あまりが、いや10%台に低迷するという不振ぶりである。
あれやこれやで、33年下期の決算では、とうとう赤字に転落した。業績はタイヤ六社中最下位という不名誉な事態に立ち至った。

「どうも、このままでは具合が悪い」
このころになると、さすがに英国のダンロップ本社も真剣に考え始めた。
そんなところへ、日本の通産省から 「日本ダンロップに日本の資本を入れるべきだ」 と、クレームがついた。
形こそ日本国籍の独立法人だが、実態は英国資本100%というから、英国本社の日本工場に過ぎないではないか。にこかかわらず、本社に対してロイヤリティー (工業所有権の使用料) を払っているのは、いかにもおかしい。ロイヤリティーを払うのなら日本資本を入れ、名実よもに日本籍の企業として格好をつけろ、というのである。
ダンロップ本社は、弱った。だが、郷に入れば郷に従えである。加えて、業績回復の妙薬も、差し当たりない。通産相の申し入れを受け入れざるを得なかった。

そのころ、住友商事の英国駐在員に、本多英二という男がいた。元駐英大使の息子で、英国育ち、したがって英語はペラペラだった。住商はダンロップ本社の航空部品の取り扱いをしていた関係で、本多はしょっちゅう、ダンロップ本社に顔をみせていた。
ダンロップ首脳は、その本多に、
「どこか、いい相手はいないだろうか」
本多は話を聞いて、一も二もなく住友を推薦した。
住友グループには、各社間に事業分野の協定がある。ゴムといえば住友電工、事実、電工は従来からゴムを手がけていた関係で、この部門の発展のためにはタイヤをやるべきだ、と考え続けていた。
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住友電工が資本参加
住友電工は、わが国の電線のトップメーカーである。ゴムには関係が深い上、東海ゴムという関係会社を持っていた。
住友電工に限らず、電線業界ではゴムの関係会社を抱えている例が多く、たとえば古河電工は横浜ゴム、藤倉電線は藤倉ゴムという具合である。
ところがゴムといえばなんといってもタイヤだ。住友電工はつねずね、タオヤ業界に進出したいという意欲を持っていた。そこへ日本ダンロップに資本参加しないか、という話である。渡りに船、とは、こういうことだろう。
よはいえ、この時点ではダンロップ本社も、通産省の意向をくんで一応の体裁だけつくろえばいい、という程度の考え方だった。電工にしても大同小異だった。
「ダンロップといえば世界一流のタイヤメーカーだ。そこと提携するのだから、いい技術を習得する絶好のチャンスだ、という感じでしたねえ。技術さえ学べば、つくるのは東海ゴムででもやればいい、と思っていた」
当時、電工のゴム事業部担当専務だった井上文左衛門は振り返る。
したがって、合併の条件なども英国側に言いなりで、格別うるさい注文など、つける理由もなかった。

住友電工が正式に資本参加するのは35年4月。資本金17億5千万円のうち5億円を引き受け、一部を住友商事が持った。
しかし、ダンロップにすれば、もとより経営権を手放したわけではない。相変わらずの英国商法だったから、タイヤ・シェアもジリジジと後退が続く毎日だった。
そのころ、日本流の借金経営に感化されたわけでもなかろうが、日本ダンロップは名古屋に新工場の建設を進めていた。
神戸工場はいかにも手狭だ。33年にゴルフボールの生産を再開したのはいいが、なにせ限られたスペースである。代わりに、けっこう儲かっていたベルト類やタイヤは撤退せざるを得ないという状態だった。そこでようやく重い腰を上げたというわけだ。
いかにも英国らしい堅実さ、といえばそれまでだが、遅すぎる決断であった。

サイの目が、いったん裏目に出るとタチが悪い。一念発起でとりかかった名古屋工場だが、資金面で行き詰まった。大型投資だけに、自己資本で全てまかなうというわkにはいかぬ。借金をするにしても、ドン底の業績では信用が得られない。
まさに立ち往生だった。このあたりで、ダンロップ本社も限界を悟ったようである。日本の、しかも高度成長下という得意な環境の中で、英国商法を貫く事の難しさ。あとは住友電工の力を借りるより仕方がなかった。
まず、持ち株比率を半々にし、増資による資金手当てをした。そして37年には、ついに電工に対して人材派遣の要請をした。
電工専務井上文左衛門に声がかかった。副社長として、経営を見てくれ、という。
「周囲から、えらいところへ行くなあ、といわれましたねえ。しかも私は電気の技術者で、ゴムのことはもうひとつわからん。もっとも、ダンロップについては、ある程度の知識を持っていた」
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住友ゴムの誕生
実は井上は、資本提携の話が出た二年前に、こっそりダンロップを視察していた。といっても、工場内に立ち入ることはできない。神戸・筒井町の神戸工場の周囲を、一時間ほどかけて二、三回ぐるぐる回ったのだった。
「設備は相当古いなあ、と思いましたね。私も技術屋だから、エントツ一本見れば大体わかる。ところが、働いている人間の動きはなかなか活発だった。これは宝だなあ、と、そういう感触は持っていた」 さて、井上。副社長として乗り込んでみると、案の定、二年程前の感触そのままである。 「以前に調べたとおり、確かに社員はよく動き、働いた。しかし、問題は能率。人間の割に売上が少ない。これを解決し、設備を新しくすれば、必ず立ち直れるという確信を得た」
井上の活躍が始まる。 一言で言えば、長い間しみ込んだ英国商法の払拭である。 しかし、住友が入ったとたん人員整理というのでは、具合が悪い。そこで、年間四、五 人ずつ取っていた新規採用をストップする一方、仕事を増やすために、ゴルフやテニスのシューズ、ウェアなどの新規部門の進出した。
言葉のカベを解消するのも、重要な課題だった。日本の企業なのだから、日本語を社内の公用語とすべきだと考えた井上は、通訳をつかまえて、 「キミ、会議は同時通訳にできないか」 早速、設備を導入し、実現した。英語による経営から日本語へ。なんでもないことのようだが、会社の変遷を象徴するかのような、ひとつの革命だった。

改革は続く。 井上にとって、どうしてもやり遂げたい仕事があった。 日本ダンロップ護謨という社名の変更である。 「経営のやり方を変えるんだからね。同時に社名に住友をかぶせ、人心の一新を図るべきであると考えた」 しかし、ダンロップといえば、伝統のある名前である。英国側の抵抗が予想された。ところが、返ってきた答えはまるで逆でで、「どうぞ変えてくれ」 という。
英国にすれば、日本ダンロップはお荷物と化していた。経営がさらに悪化するようなら、機を見て逃げ出したい、という様子だった。そのため、ダンロップという社名を残すことには、必ずしもこだわらなかったのである。 また住友電工は、経営にあたるについて、デリトリー以外の地域へも輸出させろ、と要求していた。輸出商品に限っては “ダンロップタイヤ” という製品名は使わない、製造者名にもダンロップというん名を用いない、という合意が出来ていたのも背景の一つだ。
社名変更への抵抗は、むしろ社内にあった。 住友グループで構成する委員会が 「住友の名を使うことは困る」 というのである。 住友と名乗って、二、三年後に倒産でもしたら、住友の名誉にかかわる、という意見が出た。だが、井上には再建の確信があった。それがあればこそ、社名の対する執念も増す。粘り強く、一人一人を説いて回った。

晴れて住友ゴム工業と名乗ったのは、38年10月のことだった。グループ内では磐城セメントが住友セメントに変わったのと同時だった。

「社長になるなどとは、夢にも思っていなかった」 井上が、この時、社長に昇格する。 すでにこの時点では、日本側の持ち株比率は50%を上回っていた。名実共に、日本の企業として生まれ変わったわけである。 業績も、見る見る回復した。一時はお荷物であった会社だが、今や世界に数多いダンロップ系列の中でも、儲け頭の筆頭、という。
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石油化学と神鋼ファウドラー
住友がダンロップの技術に目をつけたように、このころの産業界は外国、とりわけ米国からの技術導入に情熱を注いだ。神鋼ファウドラーもその典型である。
三十年代になると、石油化学が新しい産業として華々しく登場した。政府による合成樹脂五カ年計画が策定されたのが30年。これに沿って、化学工業界は設備投資ラッシュの様相を呈した。
このブームに、うまく乗ったのが神鋼ファウドラーである。
「昭和31年になると、合成樹脂関係の重合機を大量に受注し、化学工業用のグラスライニング製臓器が、次第に大きな比重を占めるようになり、当社は大飛躍を成し遂げた」 (神鋼ファウドラー・拾年の歩み) まさに、石油化学さまさまである。だが、なぜグラススライニングに人気が殺到したのか。
当時の常務花井嘉夫 (後の社長) によると
「そのころはといえば、ちょうど塩ビの国産が始まったばかりだ。重合機はステンレス製だったが、これだと機内のカベにポリマーがくっついてしょうがない。いちいち手ではがしていたのが実情で、なんとかくっつかないものはないかと血まなこだった。ところが、米国ではグラスライニングが使われているということでね、化学会社は競うようにウチに注文をくれた」 現在では、塩ビ製造のプロセスそのものが変わり、くっつくということは問題ではなくなったという。しかし、当時は塩ビ用の重合機といえばグラスライニングで、一台八、九万円のものがジャンジャン売れるのだから、まさに塩ビさまさまだ。花井らは吾が世の春を謳歌した。

ところで、この大ヒットの背景として見逃せないのが、米国の技術導入という点である。
神鋼ファウドラーは、名前からわかるように、神戸製鋼と米国ファウドラー社 (現サイブロン社) による合弁企業である。設立は29年だが、戦後における県下の合弁第一号でもある。
それまでは神鋼琺瑯といい、戦後、ホウロウ製の家庭用品などから始め、酒造用タンクで一儲けした。しかし、清酒やビールのタンクのみではおのずから市場は限られている。
大きく伸びるためには化学工業への進出が不可欠だった。だが、ただのホウロウでは酸に対してきわめて弱い。耐酸性の製品開発が急務であった。

当時、世界の潮流はホウロウから一歩進んで、ガラス質を鉄板の内側にコーティングする技術だった。これがグラスライニングというわけだが、いざ自力でやってみるとなかなか難しい。花井は言う」。
「優秀な外国技術を導入するほうが早道だということでね、パージ中だった浅田長平氏に相談したら、面白い、ぜひやろう、と賛成してくれた」
文献などで調べると、ファウドラー社がビカ一だった。早速、技術提携を申し入れたが、ファウドラーは 「合弁以外はノー」 という返事だった。やむなく合弁で話を進めたが、今度は日本政府がなかなかOKを出さない。ロイヤリティー (工業所有権の使用料) のみならず、配当まで出すような形は、外貨不足時代に具合が悪い、と言い張った。

「ユーザーであるビール会社や化学・薬品会社を走り回ってね、請願書まで作って政府に出した。外貨の流出という点なら、製品を輸入するより国産化を図る方が得策ではないか、ということでね。苦労の果てに、やっと許可が下りた」 と花井は苦労を語る。
ファウドラーから二人の技術者が来日し、一年間みっちり技術指導に当たった。並行して、大型の製造設備を建設した。技術を習得し、設備も完成したころに、時ならぬ石油化学ブーム到来、というタイミングのよさだった。
高度成長時代は、優秀な外国技術の導入時代とも言い換えられる。神鋼ファウドラーも、その典型ということだろう。
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