西南戦争と神戸
一枚の写真西郷どんと神戸戦争と政商たち西南戦争が残したものその史跡

一枚の写真

丹波篠山町菅で針きゅう業を営む大西康之の家から古ぼけた一枚の写真が見つかった。
村の実力者らしい男を23人の若者が囲むように並んでいる。
「明治7年4月27日、大阪鎮台」
とあり、粗末な和服のエリに名札をかかげ、鉢巻をした一人を除いて表情は一様に硬い。
二列目左端に写っているのが大西重兵衛。康之の祖父与三良の末弟にあたる人。重平衛は22歳のとき、丹波から入営した40数人と共に姫路で訓練を受け、10年に勃発した西南戦争に出征した。

戦争といっても西郷隆盛の起こした反乱。後年の出征兵士のような晴れがましい見送りはなく、引かれる牛のように・・・・ 重平衛の属した第二大隊の兵士は3月9日大阪港を出港した。
博多から肥後高瀬に着いて大山巌指揮の第四旅団に編入され、田原坂、熊本を経て最後の城山まで絶えず最前線に位置した。両軍が5、6メートルに接近して戦う田原坂では兵卒は虫けらのように死んだ。重平衛の第二中隊はこの戦いで31人を失う。

「官軍の第一線は突撃発起を待っていたところ、朝がすみにかくれて横平山の官軍陣地に近迫した薩軍役三百が突如白刃をふるって突入してきた。官軍守兵色を失い敗退。急報により官軍は攻撃計画を変更し、諸隊は挙げて横平山の奪回に投入した。両軍は肉薄して接戦、死闘を繰り返した。しかし官軍抜刀隊も被害多く、その精鋭はほとんど失われた」
その死闘を歩兵第十連帯(姫路)史は伝える。

数度の激戦にも重平衛は生きのびた。しかし死を恐れない西郷軍の抵抗で苦戦を強いられた城山の戦いで戦死。丹波から出征した40数人中、再び故郷の地を踏んだのはわずか7人だった。
官軍側の戦死者6千8百43人、薩軍側の死者7千2百76人。要した軍備4千157万7千7百余円、他に海軍の65万4千5百余円。
思えば何の為のムダであったか。当時、米の値段は1石(150キロ)5円55銭。戦費の消費がなければどれほどの零細民が助かったことか。
戦争で死んだのは細民たち、太ったのはひとにぎりの金持ちだった。その不合理性は明治4年の徴兵制のころから始まっている。

山県有朋、川村純義、西郷従道らが建議、太政官布告が出、6年1月に発布された。しかし国民皆兵制度といっても、選び方は不平等そのもの。
徴兵検査(20歳) を受け、3年間の兵役を課せられたが、特権階級には都合のいい抜け道があった。
つまり @官公吏 A洋行中の者、医者を学ぶ者 B一家の主人 C嗣子ならびに承祖の孫 D独子、独孫 E罪科ある者 など12ケ条の免役条項があったのである。さらに代人料2百70円を払えば免疫されるという規定もあった。同9年、適齢者中80%以上が免役に該当していたという。
男達はあらそって免除のある戸籍を買収した話も伝わっているが、それが出来ぬ貧農の二、三男は“盗っと”になるより免れる方法はなかった。

一枚の写真を見ながら康之はこういう。
「じいさんから聞いた話では、重平衛は休暇で帰ってくるたびに、孫子の代まで絶対軍隊にはやるな、とこぼしていたそうです。人間を人間として扱わない軍隊より、貧乏でも百姓の方がよかったんでしょう」
写真に写った若者の暗い表情は、戦争に対して何よりも雄弁に反抗している。
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西郷どんと神戸

「隆盛は神戸開港に賛成はしなかった。しかし幕府だけでなく、諸藩が対等に権利を得るなら開港もやむを得ない」
という意味の記述が、勝海舟の「氷川清話」に見える。しかし西郷と神戸の関係を示す史実はこれ以外に見当たらない。
兵庫港周辺に各藩の浜本陣があった。薩摩藩士は上京する際、瀬戸内海を通って兵庫に上陸、浜本陣で休んだ後陸路東京に向かうコースをたどった。西郷も足しげく往復したはずだが、足跡は残っていない。
しかし薩摩に踏んばり、私学校党の蜂起に同調して、明治政府と戦った西南戦争、この影響は大きい。沈滞していた湊景気が兵站地になったことで、一気に活況をよみがえらせたからだ。

「西郷立つ」の報はすぐ神戸に伝わった。明治天皇は有栖川宮を討伐総督に任命し、大久保利通らの政府側は京都の木戸孝允と連絡をとりながら兵員輸送に機敏な手を打った。
輸送のコースは東京、京都、大阪を経て神戸から海路で博多へ。政府は神戸に輸送課を置いたが、弁天浜にあった専崎五平別宅がその本部となった。陸続きとはき出される兵員とおびただしい軍需品。戦場に向かう兵隊の興奮が、庶民にもズシンとこたえた。

2月15日晴。昨今近衛兵ならびに海軍らおいおい繰り込みたり。およそ4千余人。軍艦も入港に及びたり。鹿児島変動の音騒然。しかし確報でなし。
2月17日晴。当日も海陸軍およそ6百人あまり繰り込みたり。大久保内務卿東京より来神。
湊川神社宮司の折田年秀は日誌にこう書いた。もと薩摩藩士の折田だけに、戦争の動きはよそごとではなかった。

福原は兵卒であふれ、荷役にありついた労務者は夜な夜なにぎやかな通りにたむろした。白米、日本酒、牛肉、味噌などの食料品は主に神戸で現地調達されたが、この景気はまた一部の小商人のフトコロをも潤す。

「八百甚は三菱の船へ売り込むワラジを5百足、何千足と店先狭しと並べる。一足一銭で売り込みて多数の利益をあげたり。蝋燭もよく売れ、店は午後11時まであけていた。戦争の話ばかりをしながら蝋燭作りが徹夜をしたこともあった」

明治元年に油店を開いた井上保蔵が「記臆之友」にこう回想している。また直木こうも「直木のかげ」で
「朝から晩まで、縄の帯して芦屋の水車へ毎日米を持って一生懸命働いた。そのころ店は出していないが、家に二つも臼を置いて夜なべしょった。戦争でみんないそがしかったんや」

戦争で右往左往した庶民の姿が浮き彫りされるが、下中弥三郎は「大西卿正伝」で、神戸、大阪に落ちた金は3百40万円とはじき出した。同10年の貿易高が8百91万円だから、戦争ブームをこの数字ははっきり示している。
しかし、巨利をものにした人たちの存在を、多くの庶民は知らない。三菱を筆頭にした、いわゆる政商たちの暗躍である。
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戦争と政商たち
岩崎弥太郎と光村弥兵衛の船隊は神戸港を離れた。博多をめざす十数隻は兵卒と軍需品を満載していたが、弥太郎の新型汽船の船足は速い。

海運保護政策を最初に打ち出したのは明治政府の大蔵卿大隈重信である。政権の中心にいた大久保利通も
「英国では物資運送の外国船使用を禁止している。そして国内の工業を保護し、繁栄させているではないか」
と例を引き合いに出して、大隈案を支援した。
そのころ外国航路は太平洋郵船会社が独占。横浜、神戸、長崎---上海、サンフランシスコに定期船を運航させていた。航海術を身につけ、政府のもち船を商人に権利を与えて、いつの日か外国資本を駆逐する夢を抱いていたのだろう。

そこへ7年の台湾征伐。軍事輸送は急を要した。背に腹はかえられない。大久保らは太平洋郵船に、打診したちころ会社側は「アメリカの中立宣言」をタテにやんわり断ってきた。急拠外国船13隻を買い込んで、当時海運に力を伸ばしてきた弥太郎にいっさいに運営を任せることにした。
弥太郎はチャンスをつかんだ。彼の独壇場はそのあとである。征伐が終わると政府所有船13隻の無償払い下げに成功。しかも1ケ年25万円の助成金まで受けた。そのあと、政府が買収した郵便蒸気船の持ち船17隻を譲り受け、外国資本の太平洋郵船より優位に立った弥太郎は上海航路など外国航路を次々独占していった。
西南戦争は台湾征伐の体験から、より敏速に手を打った。倉庫、荷為替、保険---と海運にまつわるすべての事業を掌握し、三菱王国を形成する。全国の汽船総トン数の73%を占めたことは、先の川崎正蔵のくだりで述べた。

光村も神戸港を中心に、内海航路で着実に実力を備えていった。新型船の三菱に比べ、双輪船まど旧式の船が多かったが、西南戦争で政府徴用船となって、航海ごとに膨大な輸送料が舞い込んだ。
「弥兵衛の栄町の邸宅は官軍の事実上の総指揮官である参軍陸軍中将山県有朋、陸軍少将鳥尾小弥太、海軍中将川村純義、参議木戸孝允、伊藤博文、井上馨らの旅館となった。乱のおさまった後、大蔵省から金1万円を下賜された」 (光村利藻伝)

政商の条件とは何か。弥太郎は日ごろ「ワシは政商ではない」とその言葉を極端に嫌った。政府のお墨付きで成功した成り上がり者というイメージからだろう。
しかし明治政府の草創期のころ、政商は“必要悪”から生まれた。殖産政策は大きな財源の一つだが、近代産業を育てる力が“民”にはない。そこで政府が技術を導入し、軌道に乗ると商人たちに施設と援助を惜しまず与えて育成、それを財源にしたのである。人間を選ぶ段になって、藩を背景にした政府は藩と結びついた商人を利用するのが利にかなう。そうして藩-政府-商人の図式が出来上がり、成功した商人たちは政商と呼ばれた。
三井は例外として、資金量の不足して商人たちは争ってコネを求めた。弥太郎-大隈の強いキズナ。それが以後の三菱財閥を育てるのである。

弥太郎と比較されるのが五代友厚。士官をあきらめ、大阪財界の地盤を築いた五大は弥太郎よりスケールが大きいといわれた。しかし利よりも義、個よりも組織を重んじた五大は蓄財には熱心ではなかった。西南戦争でも
「軍服の多数を、紺屋の手で染めることができなかったので、五大の経営する朝陽館が引き受け、1日300反を染めあげた」
という記述が残るだけ。五十代に達せずに早逝したこともあって、五代王国は一代限りで終わりを告げた。弥太郎と五代を比較した時、政商の持つ響きが歴然とわかろう。
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西南戦争が残したもの
西南戦争は大阪の豪商たちをうるおした。
その一人に松本重太郎。後に山陽鉄道の社長血となった松本は、そのころ雑貨、ラシャの売買をしていた。神戸の外人が戦況を分析して「今が儲けるチャンス」といったのをヒントニ、軍用ラシャを買い占め、7百数十反を売り尽くして一躍大阪財界の有力者として踊り出す。
藤田伝三郎も軍需品の調達で大もうけしたが、さすがは抜け目のない大阪商人。陸軍事務所が設置され、兵站本部となった大阪を最大限利用した。

それにひきかえ輸送基地だった神戸の商人はまだまだ未熟だったといえるだろう。当然、一部の商人を除いて庶民はうるおわなかった。戦費調達のための不換紙幣乱発がたたって、一時の活況はどこへやら。インフレで失業した武士、労務者が町にあふれた。製薬があり、マッチ製造も始まったが、労働力の吸収は、まだ完全とはいえない状態。


翌11年、百三国立銀行支店、七十三国立銀行、12年には六十五国立銀行、13年には横浜正金銀行支店、五十八国立銀行支店、三十八国立銀行支店・・・・と相次いで神戸、兵庫地区に設けられた。しかし旧士族などの金禄公債発行をもとに、不換紙幣の回収を念願として全国的に設立が急増したものだが、他地方のように地元の出資による設立は見られない。

12年、兵庫、神戸、坂本村が合併、新興地の名を冠して神戸区となった。企業は徐々に増え、貿易額も統計上は急増した。が、実際はとどまるところのないインフレ。そこへ14年の政変によって大蔵卿・松方正義が登場する。
前任者の大隈重信は、インフレの原因を紙幣と正貨がつり合わないから、としていた。松方はそれを、紙幣が多すぎるから生産につり合うところまで減らさなければならない、とした。いわば荒療治だ。それが極端なデフレ政策となった。
松方の予想どおり、一時的な混乱が起きた。神戸では裁判所の扱った身代限処分(破産)件数が、13年3件、14年14件、15年25件、16年45件、17年63件とウナギのぼり。この17年には、兵庫を代表した豪商北風家も含まれている。

しかし一方で、西南戦争が神戸の貿易港としての優れた機能に注目を集めたことは見逃せない。一つの現われが11年3月、北長狭通に設立された県立の神戸商業講習所だ。県令(知事)盛岡昌純(薩摩藩出身)が、西南戦争の前から設立を働きかけていたが、実際の運びとなったのは、西南戦争に伴う運輸、商業の実態があったからだろう。盛岡は、県の勧業課長で福沢諭吉門下だった牛場卓蔵を通じ、福沢の協力を得る。福沢は慶応義塾から甲斐織衛ら三人を教師として派遣。この講習所が19年に改組された県立神戸商業学校の前身。東京商法講習所(森有礼の私費で8年8月設立、現一橋大)に次ぐ全国二番目の商業学校である。

また西南戦争の置き土産の一つに、コレラがあった。
9月22日、帰還兵士が兵庫港に停泊中7人発病、うち4人死亡。病菌は初めて神戸に上陸、5万1千人の町並みにひろがった。この蔓延で兵庫県の患者は4百89人、うち死亡者3百55人、死亡率72.6%。
皮肉なことに、この事件が環境整備の必要をうながした。12年8月、道路清掃は居住人の責任、シ尿のくみ取り、下水溝のしゅんせつは行政で、と規則が決まった。それはまた環境衛生だけでなく、道路、市街地の整備へ目を向けるきっかけともなった。

しかし庶民の感覚となると別。ブームが去ると、不況が生活を圧迫し、コレラまで持ち込まれる。「勝てば官軍」といっても、その裏でウップンをぶちまけた。童謡に受け継がれた「西郷びいき」がそうだし、東京では
「西南戦争は興奮の渦を巻き起こし、西郷さんに勝ってもらわなければ、と毎朝の新聞が奪い合いになった」
という、西国の田舎もんに江戸を荒らされた、その心情からだろう。

「あれしきの暴動を、装備は比較にならないほど十分な近代軍隊である官軍が鎮圧するのに、あんなに長くかかるはずもない。まったく三菱が私服を肥やすため、軍隊や軍需品の輸送に必要以上に時間をかけ、戦争を長びかせたものだ、と世上でとりざたされた。西郷が命を捨てて三菱を太らせたとまでいわれた」(山川菊栄「女二代の記」)

庶民の感覚は、戦争の正体を的確にとらえていた。それは、自分たちの生活にもたらすプラスが何もないという実感がとらえた戦争感でもある。

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その史跡
湊川神社境内に「忠節記念之碑」がある。出征してたおれた官軍兵士の魂をまつる碑だが、元薩摩藩の析田年秀宮司の発起で建てた。征伐総督・筆は有栖川宮熾仁親王。
三菱倉庫高浜営業所中庭に「明治天皇御用邸跡」の石碑が残っている。戦争の勃発した10年2月、その一週間前に京都、大阪、神戸間の鉄道が開通。式典にのぞまれた天皇が専崎弥五平邸に一泊。いまの三越神戸支店にあったのを移転した。
戦争を契機に軍の組織は確立した。それを背景に国家は強力になっていくが、合わせて忠節の思想が定着する。庶民には名分のない戦争であっても、官軍は正義の味方。その時流が、こういった碑につながるのだろう。

対して、大倉山・安養寺に残る小さな墓碑に、森正己、石原栄、高山義一・・・・らの名前が見える。福岡藩士、いわゆる賊軍の若者たちである。戦争が勃発するや、福岡藩士の500人は西郷軍のゲキにこたえ、遠征してきた有栖川宮の本陣を襲う。が、官軍の挟み撃ちにあって失敗。うち400人が乱平定後各府県の監獄に分かれて投獄された。
兵庫監獄(生田区下山手小学校東側)に入った旧藩士は36人。安養寺の8人は病で倒れ、神戸病院に収容されて死んだ。郷土史家の岸百艸はいう。
「わずか2年の刑期に11人もの病死者を出した。おそらく監獄で発生したコレラの犠牲ではないか。
和田岬に消毒所を設け、海岸通に検疫委員出張所を置いたが、蔓延を阻止できなかった。
異境の地で寂しく死んだ若者達は、国が起こした戦争の犠牲第一号ではなかろうか」
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