“相場師” 呉 錦 堂

舞子の移情閣

国鉄舞子駅のすぐ南側。
松林を通して洋館風の建物が見える。孫文も泊まった由緒ある文化財で、一時風雨にさらされていたが、昭和42年に修築された。
この建物。神戸の華商で名をあげた呉錦堂が建てた別荘である。
イギリス人建築家ハンセルの弟子・横山栄吉の設計で、八方どの窓からも違った景色に出あい、われを忘れる、ということから「移情閣」と名づけたが、市民は六角堂または八角堂と呼んで親しんだ。

大正のはじめ、あたりに数件の民家が点在する寂しい浜辺だった。
移情閣の東側に八木商店の八木与三郎の別荘、その隣に武藤山治の家。
50b間隔の三家は家族ぐるみの付き合いで、親しく往来していた。
やがて武藤家の二女・二三子は幼馴染の八木家の長男幸吉に嫁ぐ。
二三子に、呉錦堂にまつわる思い出話を聞いた。

「日本語はちょっとアクセントがあるけれど、達者でしたよ。商売に抜け目のない、華商そのものの印象でした。
第一夫人は上品な、おとなしい方で、テン足でよちよち歩かれたのを覚えています。
そのころ養子を迎えられました。私が小学校へ行く前のことで、その子をケイバン、ケイバンと呼んで仲良くしていました」
ケイバンとは啓藩、呉錦堂が第二夫人に産ませた子だ。

獅子文六が呉をモデルにしたという「バナナ」によると、太っ腹でものわかりのいい大人に描かれている。
しかし武藤山治によると印象はまるで逆。写真で見ても、細身で神経質な面影が残っている。
人前で平気で手鼻をかむ。食事も大きな音をたてて平気。神戸にいる間はよかったが、東京に乗り出すころになると、さすがの武藤もこの田舎の大人のポーズが気になった。
そこで呉に最小限度の紳士学を教えてやろうと思い込む。

「何事も家庭から、と考えて女の家庭教師を雇い入れるようにすすめた。彼はしぶったけど、強引に適任者を見つけて押し付けた。
せめて人前で手鼻だけはかまぬ程度に仕立ててやろうと思ったわけだ。
はじめの四、五ヶ月はおとなしくしていたが、気ままな呉は窮屈でしようがなかったらしい。とうとう追い出してしまった。いろいろ世話を焼いて失敗したのだけど、啓藩が家庭教師を慕い、離れようともしない。これには呉も困ったようだ。人情とはまことに妙なものだね」
と武藤は述懐している。

武藤は慶応塾に学んでアメリカに渡り、帰国後鐘紡を引き受けた。彼の経営感覚が番頭、デッチの関西式企業家に与えた影響は大きい。私生活では敬虔なクリスチャン。
その武藤が紳士道をわきまえぬ呉の教育をしようとした。取り合わせが妙だが、口ではけなしていても、隣人のよしみ、呉の持つ人柄の良さを愛していたのかもしれない。

呉は安政5年、中国浙江省で生まれた。
31歳のとき長崎に来る(明治18年)。のち大阪に移り、行商の苦しみを味わう。多少の蓄財ができたので、神戸で貿易商を開いた。
呉錦堂合資会社と名称を変更してから軌道に乗り、マッチ、綿花、穀類を扱い、次第に店を大きくした。

倒閣を現した呉錦堂の経営感覚を、郷土史家の川辺賢武は「歴史と神戸」にこう書いた。
「以前は日支貿易といっても、神戸に在住の中国人との取引に過ぎず中国本土との直接なものはなかった。
彼は仕入れ商品を中国へ運送するときには自分も便乗して出かけ、中国の事情や、要望をじかに受け止め商売をした。ソツがなかった。
日露戦争中に、彼はドイツ船(1427トン)を買い入れて錦生丸と名づけた。投機的に買い入れるものが少なくなかったが、彼は商品の運送に利用したものと思われる」

堂々たる華商に成長した呉はこのころ、中国に紡績工場を建設した武藤と知り合う。
中国の世情、それに貿易のイロハも武藤は知りたい。二人はすぐうち解た。
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鐘紡の社勢にかげり
「生涯で最大のショックは中上川彦次郎氏の死だった」
と武藤山治はいっている。
中上川は三井の総帥。それに福沢諭吉の薫陶を受けた三田系経済人のリーダーであった。鐘紡の再建に武藤を送ったのも中上川。

明治34年10月7日、働きざかりの48歳で中上川が死去した---という知らせはすぐ神戸の武藤に届いた。ある意味で、このニュースが武藤と呉錦堂を、より密接に結びつけた、といえる。
鐘紡の社勢は順調に伸びていた。武藤は紡績合同論をぶち、中国を将来の開拓地とにらんで上海に進出をもくろみ、明治31年訪中の旅に出た。
その時同行したのが、鐘紡の糸を一手に販売する八木商店の八木与三郎である。
手薄い資本ながら大阪・南久太郎町に店開き。しかし持ち前の商売熱心で頭角を現し、神戸にも週二,三回来ていた。
中国商人から綿糸を買って売りさばくのが主な仕事だが、ヒマを見つけては鐘紡兵庫工場を訪れて、綿糸の善し悪しを勉強した。
八木商店の創業のころの宣伝広告に-----
「鐘紡の工場は14ヶ所。その錘数21万7千312。全国第一の会社なり。鐘紡製品を使用することの得は、需要家の証明せられるところ。わが店は鐘紡特約店として、実績は全国最大なり。特別廉価で販売するのも特殊なり。八木与三郎糸店」
鐘紡製品にとことんほれ込み、商売を広げた八木もまた、合理主義のかたまりだった。

武藤は、糸にかけては鑑識眼抜群の男を雇い「他社に比べてよく織ってある」との評価を得て自信を持った。
八木に呼応して宣伝戦を開始。新聞広告、チラシ、それにポスターを張りまくった。商人の口コミがすべてで、広告が商戦の武器だなかった時代。このPRは絶大に効いた。
そこへ思いもかけぬ中上川の死。
会社は順調そのものだが、大事な後ろ盾を失ったことで、武藤に一瞬ある不安が頭をかすめた。
というのは、そのころ、井上馨と中上川は鋭い対立を続けており、中上川の死によって、三井が鐘紡から手を引くのではないか----という不安である。

井上は三井の後見人。組織を拡大しすぎて危機に陥った三井を救うために、山陽鉄道社長だった中上川を三井組参事、三井銀行副長に登用した。ところが、二人はことごとくに意見が食い違う。
「子供が大きくなると、親子でも感情の融和を欠くこともある。三井の整理が段々と進み、積極的に仕事を広める中上川のやり方は、どちらかといえば、消極的、緊縮を好む井上侯には御気に召さなかった。
中上川の死の一年程前から対立はかなり激化していたらしい。われわれは井上侯が過激な処置をとられるだろうろウワサしていたが、緊縮方針を着々実行された。生糸業はその第一で、方々に建設した生糸工場はことごとく売却される始末」
(武藤山治全集第一巻)

山陽鉄道時代からそうだが、中上川は、“斗酒なお辞さず”の豪の者。体力には自信があったはずの彼も三井再建という重荷と心労が重なったのだろう。しかし中上川の死だけで三井が鐘紡から手を引くとは考えられない。その根拠は何か。

井上に真意を聞くチャンスは意外に早く訪れた。
35年5月、当の井上が鐘紡兵庫工場を訪れた。工場巡視のあと、三井物産のレンチに乗って神戸港へ。そして西村旅館にかけ込んだ。
武藤はつききりで井上の感触を探ったのだが、井上は糸と石炭の専門知識を披露するばかりで、肝心の株のことはウンともスンとも言わない。腹芸で鳴る井上のこと。中上川の腹心である武藤に真相をもらしてはまずい、と考えたのだろう。
武藤の不安はつのった。

そのころ呉錦堂は悠然と構え、商売のかたわら、相場を張って値動きを楽しんでいた。
「事をはかるは人にあり。事を成すは天にあり」
などと、悠長な言葉をもてあそびながら・・・・・。
紡績のかげりを知る由もなかったので、鐘紡株はもちろん呉にとっては特上の優良株だった。
天下の一大事が持ち上がり、呉の立ち上がる時が訪れたのはその直後である。
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呉、鐘紡取締役に

三井財閥がなぜ鐘紡株を放出する気になったのか。先に、三井の後見人・井上馨と中上川彦次郎の対立をあげたが、理由はそれだけではなかった。
日露戦争の勃発による戦費の調達で、政府財政は極端にひっ迫していた。
大企業、それによりかかる中小企業も軍需産業以外はどん底。三井財閥とても三井物産への融資さえとどこおりがちで、各地に工場を建設し、社勢を伸ばす紡績にまでてが回らなかった。
三井の持ち株は6万株。額面70円として420万円。放出すれば当面のやりくりに間に合う。大三井にしては、姑息な手段だが、背に腹は変えられない。
「売却することに決まった。腹立たしいだろうが、辛抱して対策を立てるように」
数日後、三井の朝吹英二(鐘紡専務)から武藤に電話がかかった。
井上は武藤に株の一件はいっさい話をしなかった。それが帰京すると、ばっさり。
朝吹の電話の口調で、井上が決断したことは明らかだ。

三井のバックアップで大企業に成長した鐘紡。系列というより同根の企業である。その三井が見捨てた?となれば、鐘紡の成長は止まった、という印象を世間に与えかねない。
武藤は早急に手を打ち、ウワサを消し止める必要に迫られた。
不況のさ中、紡績株をおいそれと引き受けてくれる財界人はいまい。造船、海運、マッチ、商社 どこを見渡しても、不況という火の粉を払いのけるのに精いっぱい。
とどのつまり白羽の矢を立てたのが呉錦堂である。彼は綿糸の商売をしていて紡績界の事情に詳しい。気心も知れているし、紡績を不利に追い込むこともあるまい。
後年、この武藤の思い込みが、完全な失敗であったことがわかるのだが、その時はワラにもすがる思いで呉を説得した。

「三井が手放すのは見込みがないからではない。井上の消極主義のおかげでこうなった。値段もころ合いだ」
とすすめた。呉は言う。
「実は益田三井総理事から内々に勧誘を受けた。あんたのいうとおりにする。あんたが買えといえば買う。売れといえば従う」
商売にかけてはしたたかな呉。失敗すれば責任は武藤にある---というガタのあずけ方に、武藤はうなずきながら頭を下げた。
いったん商談が決まると、呉の行動は早かった。といっても呉に三井の6万株を買い取る財力はない。まず1万5千株を目標に、三井銀行神戸支店にかけ合った。
「株を担保に一株75円として八掛けなら120万円。大金だが、放出するという本店の意向を知っていた支店長は快く応じた。

幸運というべきか。呉が紡績にのめり込んだとき、景気は回復した。「事をなすは天にあり」という天の味方が舞い込んだのである。
一時期27、8円に低迷していた紡績株はじりじり上がり、一日二、三割の高騰を続けることもあった。手金出さずにまんまと大株主になること成功 。
勢いに乗った呉は次に2万5千株の取得をねらう。値が上がって巨額を要したが、呉が買えば、東京、大阪の取引所は色めき立った。75円から95円と高騰を続け、ついには100円の大台を超えた。

呉の見込みはことごとく当った。三井の金で、三井から紡績株の分与を受けたようなものだ。つごう三回の買いで4万数千株という、筆頭株主になったのである。
「上品な三井から下品な呉錦堂に株主が変わっただけ。彼は私に向かって配当してくれとか、増資せよ、といってこない。会社経営に何の支障もなかった」
と後に武藤は言う。下品であろうとなかろうと、武藤のピンチを呉が救ったことには変わりはない。上品な三井よりもはるかに義に厚かったわけだ。
次の株主総会で武藤は呉を取締役に推薦したのも、大株主という理由だけではなかろう。信義に信義で応えた。

明治39年。呉の絶頂期であろう。どこへ行っても人々は呉を凱旋将軍のように迎えた。二頭馬車を仕立てて取引所に顔を出す。呉の動きはそのまま株の動きを左右する。仲買人は顔色を変えて呉の一挙一動を見守った。
そのころ、呉と株を天ビンにかけながら“仕かけの時”を待つ青年が兜町にいた。鈴久こと鈴木久五郎である。
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相場師・鈴木の登場
戦争は資本主義経済の成長をもたらす。その典型的な例が第一次世界大戦だろう。他国のあがきをシリ目に太り、庶民は投機に殺到。産業の資本総額が34倍、とくに紡績業は97倍にふくれ上がった、といからすごい。
ブームに伏線は日露以後の明治40年代にあった。株が熱気をはらんで、投機の花形として登場する。それも個人対個人が度胸とカンで勝負する“思惑相場”。

鈴木久五郎。
明治19年、埼玉生まれ。鈴木銀行東京支店長時代から相場に手を出し、東鉄、日糖買占めで名を高めた。
特に日糖は、資本金400万円の優良会社。それを鈴久は買いで押しまくり、株の過半数を制して創立者を追い出し、自ら監査役におさまった。
押しと精悍なツラがまえ。29歳の若さで500万円の財をなしたといわれ、兜町の仲買人は“買いの鈴久”とおそれた。

その鈴久が鐘紡株に照準をあわせた。そのころ屈指の優良株でありながら、株ブームの割に、140円前後をウロウロしていた。その裏で4万数千株を持つ大株主の呉が、売り買いを自由に操作しながら利ザヤをかせいでいるのを、鈴久は見抜いていたのである。
「一介の華商に、日本の仲買人が手も足も出せないのはコケンにかかわる」
例の負けん気が頭をもたげた。
鈴久は内密に東京、大阪両取引所に出入りする配下に鐘紡株の“買い”を指令。
39年9月、呉は145円で売りに出た。チャンス到来であった。

武藤山治は投機をもっとも嫌う。かねがね「事業は人」を唱え、重役に就任した呉に対しても「軽はずみな投機はしないように」と申し入れていた。
しかし紡績株の取得で味をしめた呉はその妙味が忘れられなかった。
ライバルがいない間はよかった。そこへ鈴久の出現。日に日に高騰する紡績の値動きに、さすがの呉もああわてた。

「非常にいら立った態度で、早口にしゃべりながら自分の手で頭をたたいたりしている。部屋中を歩き回って私に何かを言うのだが、アクセントのある日本語だからよく聞きとれない。そのうち相場にひっかかって困っている様子がくみとれた」
そのころの呉の動揺ぶりを、武藤はあとでこう述懐している。

暴騰。呉はムリを承知で、銀行から200万円借りて売りを通した。しかしいくら売り込んでも相場は上がり続け、ついに200円を突破。呉は持ち株を全部はたき、そのうち追敷金を要求されて完全に行き詰まった。
武藤は呉の“慢心”をしかりつけたが、自分自身株を持たない一介の支配人。呉の金ぐりを銀行に口ききするのがやっとで、鈴久の押しを防ぐ手だてはなかった。

鈴久側にも豊富な資金があったわけではなかった。現物でなく、月限の強気の思惑買い。仲間の株を合わせて、もはや鐘紡の過半数を占めていたが、実株を買い取る資金調達が大変。
この一戦を天王山とみた彼は必至にあらゆるツテを求めて奔走した。
ほとんどの金融筋は、加熱した投機を危ぶんで、融資を断ってきたが、意外なところから援軍が現れた。
安田銀行の安田善次郎頭取である。
「株価が200円なら、200円いっぱい貸そう」
と安田は言う。
鈴久の度胸というより、鐘紡株の持つ将来性を買う安田のしたたかな計算である。
安田が後盾についたことで勝敗の行方は見えた。
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鈴久、鐘紡を乗っ取る
鈴久と、金子直吉は東海道線の車中でよくあった。月に五、六度大阪取引所に来る鈴久と、政府要人にあうため上京する金子。
お互い忙しい身だが、車中では独特の経済論をぶっつけあった。
「食堂車のメシは食えん」
と竹の皮をほどいてニギリメシをほおばる鈴久。
大正のはじめ、もはや絶頂期を過ぎていたが伝法調で相変わらず鋭いおしゃべり。
「強気が歩いているような男」
とさすがの金子もシタを巻いたという。

明治39年夏。
鐘紡株は高騰を続けた。
230円から勢いはとまらない。
呉錦堂ら売り方の唯一の期待は「鈴久一派に月限も株を買い取る実力がないのではないか」ということだったが、安田銀行が背後にひかえ、その望みもついえた。
鈴久は鐘紡株の八割方を押さえた。
この一戦での儲けはざっと500万円。1万円で豪邸が買えた時代の500万円である。
毎夜の大尽遊び。700uを超える御殿。二頭立て馬車。“成金鈴久”の行動は東京中の評判になった。
買いの鈴木が勝った、という事実はさらに株ブームに油をそそいだ。
40年の正月を迎えても天井知らずの相場は続き、鐘紡株はついに290円台を突破した。

この世界の勝負に悲劇はつきもの。145円から売りに出た呉錦堂は破産の憂き目にあい、呉について売りに回った麦小彭(ばくしょうほう)は莫大な負債を負って上海に逃げた。加えて売り方のリーダー今野重久東京米穀商品取引所理事長が39年の暮れ、腹を切って自殺する暗いニュースが伝わった。

売り方の総崩れは鐘紡経営陣の悲劇をも意味した。
専務・朝吹英二、支配人・武藤山治らは連日対策を話し合ったが、妙案はない。
とにかく八割以上の株を押さえた鈴久とあうことが先決だ。

最初に神戸・オリエンタルホテルで呉-鈴久会談が行われた。
時の相場より20円安で両者の株をとけ合わせよう、という相談。つまり呉側の値引き交渉だが、強気の鈴久は「東京側の気勢をそぐだけ」 と一蹴してしまう。
次に武藤が東京の旅館に鈴久を招いた。鈴久はここでも10歳年年長の武藤を見下し、持論をまくし立てた。
「鐘紡の資本金550万円を1千万円に増資しようではないか。現金を集め、不況時に地方の紡績工場を安く買収するのが会社の繁栄につながると思う」
三時間にわたる激しいやりとり。やがて不況の反動がやってくる、という点で両者の意見は一致したが、武藤は増資に強く反対した。
この海岸も決裂。勝者と敗者の立場を武藤はみじめに味わった。
「意見が合わなければ仕方がない。私は株主としての権利を執行する。早速臨時株主総会を開く準備を進める」
ほとんどケンカ口調で、鈴久はこういい放つ。

武藤が紡績兵庫工場支配人に就任したのが27年。13年をかけて、ボロ工場を日本一の会社に仕立てた。武藤の温情経営は従業員にもしみ通っていた。その、自分のすべてをかけた会社が一介の青年に乗っ取られようとしている。
41年1月12日波乱の株主総会。鈴久の要求どおり資本金は1千100万円に増資され、重役陣は朝吹、武藤、呉ら首をそろえて辞職を申し出た。
鈴久側はここで富士紡社長の日比谷平左衛門を社長に迎え入れた。鈴久は重役に名を連ねなかったが、実質オーナー。背後から重役陣をあやつり、紡績業界を席巻しようというコンタンだ。

しかし、この世界、時に勝者、敗者が逆転する。
この直後、劇的などんでん返しが起こるのである。
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鈴久没落と武藤の復帰

相場は水もの。なんの前ぶれもなくガラ場が襲う。
明治40年春。日露戦争の浮ついた風潮もおさまり、戦後の反動がやって来た。
ここに来て鈴久の若さが一挙に露呈するのだ。
目先のきく相場師が売りに回り、あれだけ天井知らずに高騰を続けた鐘紡株もつれてジリ安。330円から300円を割り、やがて250円に。
まだ鈴久は強気だった。「一時の反動」という甘い読みで買いに出たが完全に裏目。そこへ、常勝鈴久の鼻っ柱を打ち砕く事件が起きた。

「武藤支配人が辞めさされた」と知って鐘紡各工場の従業員がストで立ち上がったのである。
創業時の苦しさは支配人も従業員も同じ。日曜日も返上し手弁当で出勤した武藤の働きぶりを従業員は膚で感じていた。そこへ虚業でもうけた一面識もない“成り金の乗っ取り”はなんとしても耐えられなかった。
鈴久はこうした動きを一部のはね上がりとタカをくくっていたが、運動は意外に粘り強く、不穏な空気は各工場に広がり、騒ぎは大きくなる一方。
折角手に入れた会社をスト騒ぎで信用失墜させては元も子もない。
ここに来て、やっと事の重大さに気付いた鈴久は日比谷社長や元専務の朝吹英二らに相談を持ちかけた。
「騒ぎを収めるのは、信望の厚い武藤の復帰しかないのではないか」
と関係者は口々にいう。せっかく、自分の会社にして、追放した人間を再登場させろという。
強気の鈴久はなんとしてもつらいが、従業員が働く意欲を失うことになれば、それで終わり。
「会社経営は経営者の見識が第一」ということを、痛いほど味あわされた鈴久は「妥協もやむなし」と決意するにいたった。

41年1月、武藤は一年ぶりに従業員の拍手を受けて、鐘紡専務におさまった。やがて社長に就任、紡績の本格的な黄金時代を迎えるのである。
「鈴木君は富裕の出身で、私とはケンカもしたが、印象はきっわめてよかった。ただ勢いに乗じて長躯し、その若さが命取りになってしまった」
武藤は後年こう言った。
呉錦堂との一戦でもし談合する老獪さがあったら。もし相場でも引け際を知っていたら・・・・
とライバル鈴久を武藤は惜しんだ。

鈴久と組んで買いに回った平沼延次郎が大きな負債をかかえて自殺。鈴久の敗北は決定的だった。
安田銀行の融資を断たれ、株は150円前後に低迷し、ついに没落した。
後日、立ち上がるきっかけをつかむために鈴久は兜町をうろついた。
かっての覇気はもはや失せ、その落ちぶれた姿に昔の仲買人仲間は目をそむけた。

戦いすんで・・・・
武藤は企業を海外進出で拡大した。最後には七割配当という破天荒な株主配当を実施して世間をあっといわせた。
武藤の没後、従業員が資金を持ち寄り、兵庫工場敷地内に「武藤山治記念館」を建設したのも、武藤の経営がいかに従業員の心をとらえたか、を物語るものだろう。
ただ記念館は戦後米軍に接収され、その後工場閉鎖と続き、いま荒れ放題の館の中に武藤の銅像がぽつんと一つ取り残されている。関係者の間で「再興させたい」という気運が強いのだが・・・・・・。

一方、呉錦堂は三菱銀行の融資でピンチを切り抜け、この一戦を契機に相場をぷつりとやめた。
「その後日中貿易の隆盛に貢献した。東亜、小野田セメント、大阪メリヤスなどの大株主となったが、謙遜して重役にならなかった。
東亜セメントなどは七割りの株を持っていたが、平取締役に甘んじた。
中華会館理事長、中華商業会議所会頭として関西実業界に重きをなした」(川辺賢武「呉錦堂と神出小束野開拓」)

武藤、呉、鈴久・・・・・三人三様の人生模様。この騒動は人々に多くの教訓をもたらした。
大企業のカサの下でぬくぬく育っても、お家大事の時は、大企業がもっとも冷たい(三井)見込みのない企業に銀行は投資しない。投資しても採算が第一(安田)・・・・など、多くの人が肝に銘じたはずだ。
しかしもっとも大きいのは
「企業は人。虚業で成り立つものではない。思惑で会社を乗っ取ってもしょせん虚業にすぎない」
という教えだろう。
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呉の小束野開拓

大正3年、華商・呉錦堂は60歳になった。中国の「寿辰」つまり還暦に当る。在神華商と関係者は楊寿彰を総幹事として「浙江呉錦堂先生六旬栄寿録」を刊行。中華会館で盛大な祝宴を張った。
6年前の明治39年、呉は鐘紡株の売り方として鈴木久五郎と対決、破れて一時は再起不能と伝えられたが三菱銀行の融資で救われた。事業の基盤が、よほど強固だったのだろう。
その後の呉は堅実な実業家の道を歩く。
東北三県の凶作による窮民へ千200円、北海道ほか六県凶作に500円・・・・と。
銀杯下賜三度に及び、育英事業、社会事業に対する寄付も多い。
なかでも今に残るのが 小束野(こそくの)開拓だ。

呉は日露戦争後、果樹園の経営を思い立った。
初代兵庫県農業試験場長の小野孫三郎に土地の斡旋を依頼。小野の勧めで明石郡神出村(現神戸市神出町)小束野の山林を買収、一人施工で開拓を始めた。明治41年ごろだという。
雌岡山(めっこさん)の西北の松林。
呉は開拓に際し、本国から中国人数人を呼び寄せて作業に充てた。彼等は切り倒した松の木でセメントだるを作り、馬力でセメント工場へ運んだ。
呉が関係した事業のうちセメントといえば東亜セメント、小野田セメント、尼崎セメントがある。
東亜セメントなど全株の70%を持ちながらヒラの取締役に甘んじた。
陳徳仁(神戸中華総商会会長)の話によると、東亜セメントの初代社長は松方幸次郎、二代目が鹿島房次郎。呉の政治力を物語る一材料だろう。
セメントだるを、どの会社に運んだか、川辺賢武は「当時、尼崎にセメント工場を持っていた」と述べているが確かなことはわからない。

呉は中国人の従事者に数軒のバラックを建てて住まわせ、農地、農道、水路、ため池を次々とつくった。
縦、横の農道は幅3メートル。当時の人は、ばか広い田んぼ道にあきれた。
だが後に小型トラックが自由に出入りし、農機具や収穫物の運搬が容易なため、他村の倍も能率が高まったため、改めて呉の先見の明をたたえることになる。

開拓してみると果樹園よりも水田に適している。
そこで山田川疎水組合に加入、水利権を獲得した。
時に組合は資金難。呉の加入によって救われた、という
が、疎水だけでは間に合わない。
大正6年、疎水路に近いところ(広野ゴルフ場西)に池を築造して「宮が谷池」と名づけた。
さらに9年、雌岡山の西ふもとに「小束野池」を完成させた。
前者は50万立法メートル貯水、昭和32年「呉錦堂池」と改称された。
後者は貯水能力10万立方メートル。
いずれも堅固で以後、一度たりとも損壊したことがない。

開拓地として一応の条件が整ったのは大正6年ごろ。同年、一町二反の作付けを行ったが収穫は八斗しかなかった。
二年目は、この失敗を手本として三町の作付けをし、施肥その他全力を尽くしたため反あたり二石五斗。新しい開墾地としてはまれな好成績で県から表彰を受け、呉は一年保留した小作料(反当り八斗一升-四斗)をとりだす。
7年には小束野にワラぶき平屋建50uの住宅21戸を自費で立て、入植者を住まわせた。開拓のため呼び寄せた中国人は帰国させ、耕作は地元の入植者にゆだねたのである。

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