ーーー「向井 正先生」を偲んで。ーー

そう、あれは私が結婚して、未だ長男の哲也が生まれる前の事だから、もう二十数年前の事になります。
夜遅く一風呂浴びて、ブランディーグラスを片手にステレオでタンゴの世界に浸っていた時でした。手元の電話がけたたましく鳴ります。
誰だ?こんなに遅く?。受話器を取ります。永江サンの聴きなれた声です。何だか慌てている様子です。
「オイ!大変や!向井先生が亡くなられたぞ!。」
こいつ、何をアホな事を言うとんや?昨日の夜、甲子園のレッスン場からの帰途、例によってミュンヘンに寄って楽しく大ジョッキを空けて自宅まで送って別れたのに、馬鹿な事言う奴やなあ...。
「阿保な事言うなよ。昨日の晩一緒やたのに。」
「いや、それが車に轢かれたらしいいんや...。それも家の前まで帰って来とって...家の前でヤラレタらしいわ...。」
「ホンマかいな!交通事故か!。」次に出る言葉を失って、ただ茫然と受話器を耳に当てているだけでした。
「えらい事になったなあ...。」永江サンも言葉に詰まります。
「ほんなら、先生今何処に居ってのんや?。」
「未だ病院で解剖されてるらしいわ、そやから自宅に帰るのは明日の午前中らしいわ...。」 兎も角明日朝一番に諏訪山の先生の自宅に駆けつける事を約して、受話器を置きます。
パソドブルの激しいリズムが部屋いっぱいに流れています。 そうです、昨日の夜甲子園のレッスン場で、このステップを教わったのを思い出します。 あんなに元気だった先生がもうこの世には居られない...。
もう再び先生からレッスンを受ける事が出来ない...。
グラスに残ったブランディーを一気に飲み干します。 焼け付くような悲しみが胸一杯に染み渡ります。
空いたグラスをジイーット見つめます。見つめるグラスの中から「向井ダンス教室」の思い出が次々と浮かんでは消えて行きます...。

永江サンに連れられて初めて「向井ダンス教室」のフロアーを踏んだのは、あれ は私が大学一年生の秋の頃でした。
ダンスなど初めての経験です。フロアーでは私と同じ様な年頃の若い男女が楽しそうに手を組み合って踊っています。何だか場違いな所に来た様で逃げ出したくなるような気持ちになったのを覚えています。
それまでの私といえば、高校も男子校で、剣道一筋の硬派のカチカチだったのが、若い女性との交際はおろか、話しなどもした事が有りません。 それがいきなり若い女性の手を取ってホールドしなければならないのだから、舌は縺れ、喉はカラカラ、全身これ汗まみれ。なんとか二時間余のレッスンを終えた時は内心ホットしたのを思い出します。
あの頃の私は今と違って本当に初心だったものです。 あれからもう何年が経つのだう...?
大学を卒業して、結婚して、もうすぐ一児の親になろうとしています。
あの日から毎週欠かさず土曜日にはレッスンンに通ったものです。いや週一回のレッスンでは済まされなくなって、月、木のレッスン日、いや金曜日の甲子園のレッスン場までも通ったものです。 硬派のガチガチが何時の間にか軟派のクニャクニャに変身してしまったものです。

ブランディーグラスに浮かびます。 大きな鏡の前、黒いカッターに黒ズボン、首には黄色のネッカチーフを巻きつけたキザな男が一人黙々とシャドウを踏んでいます。全くキザな奴です!。

ブランディーグラスに浮かびます。
月一回催されるダンスパーティーの宵です。
ミラーボールの淡い光の中、ワルツのリズムが流れます。
素早く駆け寄ります。「踊って貰えます?。」
「私?未だワルツは上手くないんです...。」
「大丈夫だよ!」尻込む彼女を強引に誘い出します。
「ワン・ツウー・スリー..ワン・ツウー・スリー...。そうそう、その調子...上手いもんだよ。」
「ごめんなさいネ..上手くなくって..。」
目と目が合います。恥ずかし気に目をそらすそのしぐさに心引かれます。
つい七日程前からレッスンに通い始めた娘です。彼女が初めてドアー開けてフロアーに入って来た時、レッスン場が一瞬華やかに輝いた様に感じたのは私だけだったのでしょうか?。 何故か胸の高まりを感じたものでした。
足が縺れます。
ううーん..痛い..!
「アッツ..ごめんなさい...足..痛くありません?」
「ううん、大丈夫!気にしなくてもいいよ...。」足の痛みをジーットこらえて笑顔で答えます。
「本当に下手糞でゴメンナサイね...。」そっと恥じらう彼女の瞳に、何故か心引かれます。
ワルツが終わります。
「スミマセン、有り難う御座いまた。」組んだ手を解いて別れます。
ああ、なんと短い曲なんだ!もっと長く続けてくれれば良いのに...。 バンドの連中を恨みます。
矢張り彼女は人気が有ります。次からつぎへとパートナーが現れて、なかなか次のチャンスが有りません。
他の娘と踊っていても、心はいつも彼女の方に向いています。
よーっし!ラストダンスは絶対にあの娘と踊るぞ!そう心に決めて、彼女の姿を追い続けます。
やがてバンドは「別れのワルツ」を奏で始めます。 真っ直ぐ彼女のもとへと走ります。 手を差し出します。
「ラストダンス...私と踊って...?。」 驚いたような彼女の瞳!
「私で良いの...?」 彼女の手を取ってフロアー中央へと進みます。 彼女を抱いてワルツの世界を踊ります。
踊りながら思い浮かべています。 あの映画「哀愁」のロバート・テーラーとビビアン・リーの二人が踊るシーンを...。
「別れのワルツ」が切なく流れ、ランプの明かりがひとつづつ消えて行く中で、ロバート・テーラが言います。
「Are you happy...?」
「Yes...」そう言ってロバート・テーラーを見つめた時のあのビビアン・リーのあの瞳あの表情...。
ライトが徐々に暗くなってゆきます。
彼女に言ってみます。 「楽しい...?。」俺はロバート・テーラーか?。
「ええ...。」はずかし気にそっと答えます。 彼女はビビアン・リーか?。
そうです、彼女は今私に取ってはビビアン・リーです。いや、ビビアン・リー以上に、もっともっと可愛い人になってしまいました。

ブランディーグラスに浮かびます。
向井先生が大きな声で誰かを叱り付けている姿が浮かびます。
「男性は女性を壁の花にしたらあかん。座ってる女性が居たらすすんでお相 手をせなあかん。女性の選り好みをするなんてもっての外や。そんな男性はこのレッスン場から出ていってくれ!。」
そうなのです「向井ダンス教室」は紳士淑女の養成の場の様なものでした。ただ単にステップを教えるのではなく、ダンスを通じて所謂ジェントルマンとレイディーとしての躾を重んじておられました。
私などは本当によく怒られたものです。なにしろ好みの女性とだけしか踊らなかったのですから...。
最後には先生も諦めたのか、あるいは見放されたのか、私だけは「特別扱い」のお墨付きを貰ったものです。
そうなのです、この教室からいく組みものカップルが生まれてゆきました。そしてその事が先生には又たまらなく嬉しそうな御様子でした。

ブランディーグラスに浮かびます。
暑い夏の夜のレッスンが終わりました。今のようにクーラー等無い時代です。皆んな汗ビッショリです。
向井先生が言います。 「オイ、皆んな生ビール飲みに行こうや...」
よく一緒に飲みに行ったものです。いつも奥さんの「我等が節チャン」が同行です。行き先は殆ど決まっています。
先ず最初に「ミュンフェン・サッポロ大使館」。先ず此処で生ビールをあおって、レッスンの疲れを癒しす。
予約が無くて空いていれば、黙っていても貴賓室に通されます。それ程よく通ったものです。
いろんなな話しに花が咲きます。わいわい、がやがや、と楽しい一時を過ごします。
「ミュンフェン」を出ると中華料理の「紅記」か先生の好物の鰻丼を食べに行きます。
鰻の時は私は遠慮します。鰻はあまりり好きでは有りません。
そんな時は親友の永江サンと、行き付けの元町のスタンド「アブハチ」へ行ったものです。

ブランディーグラスに浮かびます。
またまたあの娘の面影が浮かびます。 淡く切なく悲しく過ぎ去ったほんの短かった日々が・・・・。
時間が刻々過ぎて行きます。
受話器を取り上げてはためらって下ろし、又々気を取り直して受話器を手に取りダイヤルに指を延ばしかけては又指を引っ込めます。
かれこれこの一時間程、同じ事の繰り返しで、時間は刻々と過ぎて行きます。
彼女の休暇の最後の日です。彼女は「日本航空」の国際線のスチュアデスで明日の朝にはフライトでもう日本にはおりません。
お昼頃家を出ると聞いています。 もう時計の針は11時半を過ぎています。 愚図愚図しては居られなせん。
意を決してダイヤルを回します。彼女が受話器を取ってくれるのを祈りながら....。
ああ...。しかし電話口に出たのは彼女のお母さんで、彼女はほんのついさっき伊丹空港へと出かけたところだと、冷たい返事が返ってきます。 ただ茫然と受話器を耳に当てたままの私...。
どうして昨夜のデイトの時に好きだ!私といっしょになってくれ!と言えなかったのか?。昨夜ならまだまだ時間が残っていたのに...。
言い出そうと思いながら言い出せず、ただ空しく時を過ごしそのまま別れて来た自分が悔やまれます。
こうして私の恋ははかなく終わりを告げました。
一人自棄酒を食らいフラフラしながら彼女とすごした思い出の場所をさ迷い続けたのを思い出します。
酔いつぶれて最後に「アブハチ」のスタンドにうつ伏して、マスターの妹さんが慰めのために弾いてくれる「アラウンドザ ワールド」をもうもうとした頭の中に切なく聞いていたのを思い出します。

ああ、あれから既に三十余年の月日が経ち、三人の子供と一人の孫に囲まれる今日この頃。
甘く、切なく、懐かしく思い出されるのは、「向井ダンス教室」!
向井先生! 奥さんの節チャン!そして多くの仲間たち!
乾杯!向井先生ご夫妻!
乾杯!「向井ダンス教室」
乾杯!若かりし仲間たち!
そして乾杯!過ぎ去った若かりし私の日々に!