= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 九 章 福 井 丸 (二)

当時の軍部と民間の関係が端的にわかるのが、上村彦之丞の逸話である。上村は連合艦隊を構成する第二艦隊の司令長官で、巡洋艦、出雲を旗艦にして、巡洋艦十隻と駆逐艦隊、水雷艇隊などを率いていた。
連合艦隊が、開戦後まず相手にしたロシア太平洋艦隊は旅順を根拠地にしていたが、別働隊ともいyべきミニ艦隊がウラジオストックにいた。巡洋艦・ロシア、グロモボイ、リューリックを中心にした艦隊で、日本の油送船団に甚大な被害を与えていた。
開戦後間もない明治三十七年四月二十五日、韓国の元山港近くで商船・五洋丸と輸送船・金州丸を撃沈。日本陸軍の将兵百人余りが犠牲になった。六月十五日には玄界灘で、常陸丸を撃沈し、近衛師団の後備歩兵連隊の千人余りがほぼ全員戦死した。
この日は、傷病兵を大連から広島・宇品に運んでいた輸送船・和泉丸もグロモボイの砲撃を受け沈没。百五人が捕虜になった。こうした損害にとどまらず、ウラジオストック艦隊は津軽海峡を通過して東京湾近くに進出する挑発まで行ったので、その跳梁を防げない海軍に対する非難の声が国内に満ちあふれた。
このウラジオストック艦隊撃滅の命令を受けていたのが上村である。国民の怒りは上村に向けられた。
東京の上村邸には石が投げ込まれ、 「腹を切れ」 と言いながら短刀を投げ込む者までいたという。国会でも責任を追及され、ある代議士はこう侮蔑した。
「濃霧、濃霧。逆さに読めば無能なり」
ウラジオストック艦隊をなかなか捕捉出来なかった第二艦隊が、その理由として天候や距離を報告していた事を強烈に皮肉ったのである。
上村の雪辱の時は八月十四日だった。その四日前、旅順に籠城していたロシア太平洋艦隊主力は、ウラジオストックへの回航を狙って旅順を出港した。この機を逃さず、連合艦隊は一代決戦を挑み、それが黄海戦となるのだが、ウラジオストック艦隊は主力の脱出行を支援するために朝鮮海峡に姿を見せたのだ。
第二艦隊がその姿を捉え、砲撃を始めたのは午前五時二十三分である。最初は巡洋艦六隻から成る第二艦隊だけで戦っていた第二艦隊だが、午前七時三十分、巡洋艦四隻から成る第四戦隊が合流し、ウラジオストック艦隊を数で完全に圧倒した。ウラジオストック艦隊は敗走し、リューリックが撃沈。ロシアとグロモボイは二日後、ウラジオストックに逃げ帰ったが、再び戦力にならないほどに破壊されていた。
リューリックは午前十時三十分、艦体後部から沈み始めた。その時にはすでに、艦長や副長ら高級士官ははほとんどが戦死していたが、生き残った砲術長 (大尉) は拿捕されるのを嫌い、艦底のキングストン弁を開き、自沈の道を選んだ。これもまた、海軍士官の心得通りの処置である。
兵士らは多くが海中に飛び込んだ。上村は憎い敵にもかかわらず、艦隊の一部である第四戦隊に救助を命じ、戦隊を率いる瓜生外吉司令官 (少将) は六百二十五人を救い上げ捕虜にした。この処置は当時、日本武士道の精華として世界に報道された。
一方で、ロシアなど一隻を追った上村がついに取り逃がしたのは、その艦体が長く洋上で雪辱の時を待ち、船底にこびりついた牡蠣で船足が鈍かったためだという。上村の苦闘は四ヶ月近くに及んでいた。
この海戦は蔚山沖海戦と呼ばれる。ウラジオストック艦隊によって沈んだ日本の汽船、帆船は十四隻に上る。そのすべてが丸腰に近い船だったため、日本国民の憤りはすさまじかった。それだけに、ウラズオストック艦隊を壊滅した上村への賛美も言語を絶するものがあった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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