= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 九 章 福 井 丸 (一)

旅順口閉鎖作戦は、廣瀬の指揮した報国丸がわずかに、港口の予定地近くに沈んだだけで、ロシア太平洋艦隊を封じ込める所期の目的とはほど遠い結果に終わった。
連合艦隊は作戦翌日の二月二十五日にも旅順に接近し、港外で偵察活動を行っていたロシアの巡洋艦・バーヤン、アスコルド、ノヴィークの三艦と砲撃戦を行ったが、要塞砲を警戒して一万二千メートル以上の遠距離から撃ち合ったため、深手を負わせることが出来ずに港内に取り逃がした。
これが第三次旅順攻撃と呼ばれるもので、連合艦隊は三月に入ってからも、第四次、第五次と砲撃戦を試みたが、ロシア艦隊は港内に隠れて膠着状態が続いた。
「やはり閉塞作戦しかあるまい」
司令長官、東郷平八郎の名で第二次の閉塞隊員の志願者を募ったのは三月十八日である。この時も二千人以上が志願し、五十六人が選ばれた。今回の閉塞船が四隻だった上に、指揮官死傷の場合に代わって指揮が取れる指揮官付を別途選考したため、人数が絞り込まれたのである。
指揮官付には指揮官を補佐するほかに、港口突入の際に船首錨をを投下し、船首塗具庫に仕掛けた六インチ砲弾に点火する役割が負わされた。砲弾は船内の防水隔壁を破壊して浸水を容易にし、予定地点で確実に船を自沈させる為のものだった。
廣瀬はこの指揮官付に、同じ朝日乗り組みの杉野孫七 (一等兵曹) を選んだ。杉野自身が強く希望していたほか、電気技術に優れ、鉄のロープを素手で結びつけることが出きるほどの体力を買ったのである。
指揮官は第一次と全く同じ顔ぶれに決まった。経験を生かすことが出来ると考えられたし、作戦立案者が自ら危地に赴くべきだという有馬良橘の考えが依然、生きていた。そのために四隻を先導する千代丸は前回同様、有馬が指揮する。二番船の福井丸には廣瀬が乗る。続く弥彦丸は斉藤七五郎、米山丸は正木義太である。
前回と違うのは、閉塞船の前甲板に二門の期間砲が装備された事である。閉塞作戦も二回目となれば、ロシア側も用心して駆逐艦などを港口付近に出し、閉塞船の行く手を阻むかもしれない。その妨害を排除するための最低限の武装を施したのである。
廣瀬が指揮する福井丸が徴用されたのはその年の一月十日のことだった。当初は軍用輸送船として必要とされた。しかし、明治十五年建造で、すでに船齢が二十二年に達し、建造当初は十一ノットあった最大速力が八ノットに落ちていた。老朽船と言っていい。このために閉塞船に転用された。
英国建造の福井丸を、福井県河野村 (現南越前町) の船主、右近権左衛門家が買い入れたのは明治三十二年である。購入金額は十七万円だった。これを海軍が借り上げるのだが、その借り上げ料は一ヶ月一万三百円。閉塞のために沈没する約七十日間で、右近家には二万六千五百八十七円が支払われた。
そのほかに、沈没によって賠償金が十二万四千百三十円支払われている。右近家が購入後だけでも、福井丸は五年間稼動しているのっで、徴用とは言っても当時の海軍が民間の財産を無下に扱っていない事がわかる。ちなみに海軍が、第二次作戦に使用した閉塞船四隻すべてに支払った賠償金は約六十二万円だった。対価としては、どの船主も不足はなかっただろう。当時の軍部や国家が昭和のものとは全く異質だった事が、この一事でもわかる。
余談ながら、民間船が徴用されたのは本来、兵員や軍需物資を輸送するためである。そのために船員ごと借り上げられた。建造年数があまり経っていない船には砲などの装備が施され、仮想巡洋艦、特務艦、水雷母艦などとして運用された。
当時の日本海軍は、三国干渉後に来るべき事態を予測して、国民生活を犠牲にするような予算で第一級の戦艦六隻、巡洋艦六席の 「六、六艦隊」 を擁するに至っていたが、それが精一杯の国力だった。日露戦争時の民間所有船は多くて計四十一万トンと推定されるが、その船も、軍用に使えるものは使うという総力戦を、日本は戦っていたのである。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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