= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 八 章 日 露 開 戦 (二)

天然の良港、旅順港の港口は、老虎半島の突端と、対岸の黄金山山麓までの水路で、幅は二百七十三メートルである。そのうち大型艦船が航行できる水域はわずか九十一メートル。そこに老朽船を沈めれば、ロシア太平洋艦隊は外洋に出られず、援軍のバルチック艦隊も港を使えずに自壊するという目論見である。
作戦の原案を作ったのは、東郷の参謀になっていた秋山真之である。秋山は米西戦争の際、サンチヤゴ港の閉塞作戦を観戦武官として視察し、見事なほどの報告書を海軍省に提出した。
「秋山はなんといっても閉塞戦を知っている」 これが連合艦隊参謀に抜擢された一因でもあった。
しかし、秋山自身は旅順の軍備、特に要塞砲の数と威力を見て、この作戦を半ば、あきらめた。丸腰の汽船で近づくのは無謀すぎると、冷徹に断じたのである。
秋山に代わって、作戦を推進したのは先任参謀の有馬良橘 (中佐) である。有馬は、連合艦隊がまだ佐世保に係留している時から準備にかかり、作戦で使用する五隻の汽船まで手配していた。
同心して準備を進めたのは、やはり東郷の参謀、松村菊男 (大尉) である。二人は危険この上ない作戦を立案しても、立案者自身が実行に移せば構うまいと考えていた。
ところが二月九日の海戦で、三笠が後部艦橋を破壊された際の負傷者に松村がいたのである。松村は佐世保海軍病院に送られ、有馬としては代役が必要になった。白羽の矢を立てたのが、日露開戦前からの主戦論者で、実戦部隊の指揮官としてうってつけの廣瀬だった。廣瀬は一も二もなく引き受けた。
五隻の指揮官は有馬と廣瀬の他は斉藤七五郎 (大尉) 、正木義太 (大尉) 、島崎保三 (中尉) である。決死の作戦であるために隊員は、各艦で志願者を募ることにした。この募集に、二千人以上が集まった。必要な兵員は六十七人である。中には血書を認めて採用を訴える者もいたため、艦長らは困り果てて、司令部で選考基準を作る騒ぎになった。
「志操堅固で技術が優秀、品行方正でかつ、家族や係累が少ない者」
危険な適地に中に船を乗り入れるため、操船技術は欠かせないものだったし、船を爆破して沈め、確実に水路を塞ぐために爆破技術の優劣も重要だった。家族、係累の項目が、戦死の時を慮ったものであることは言うまでもない。
この条件のために、選に漏れた一等兵曹がいる。爆発物に関しては有能この上なかった杉野孫七である。その技量を見込んでいた廣瀬は、自身の指揮する汽船・報国丸の爆沈装置を杉野に準備させた。できれば作戦にも参加させたかったが、杉野には妻と三人の子供がいたためにかなわなかった。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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