= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 八 章 日 露 開 戦 (一)

(今年は時局愈々迫り、武夫等年来の素願、北露と砲弾の間に見ゆる期あらんことをば、神かけて祈居候。唯々当局の遣方もどかしく、日夕剣を撫して西天を睨むの有様に有之候。 (略) 武夫事は日本一の大艦に乗組み居候事、日清戦役の如き武運の不遇に嘆ずること有之間敷境遇に有之候間、志気軒昂、自ら平生に倍する心の心地致居候)
明治三十七年の元旦、戦艦・朝日の艦上で廣瀬が叔父の衛藤敦夫に宛てた賀状である。数日前の三十六年十二月末には日露の外交交渉は行き詰まり、日本政府は陸海軍に対して、何時たりとも出兵差し支えなきよう、と臨戦態勢を命じていた。
御前会議が開かれ、日本が開戦を決定したのは二月四日である。その三日前、戦時を想定して編成されていた連合艦隊は、結集していた佐世保で、全艦隊による鳥帽子登山競争を行っている。廣瀬の隊はここで第一着になって先登第一旗 (優勝旗) を得た。海軍兵学校時代の駈足競争でも、廣瀬は体力に自信のない者を先頭に立てて、落伍者なく走り切って優勝する知者ぶりを発揮したが、ここでもその情熱が再燃したのだろう。廣瀬は三十六歳になろうとしてもまだまだ、生年士官そのものだった。
東郷平八郎長官が率いる連合艦隊は六日、佐世保を出港した。連合艦隊は、東郷が乗る旗艦・三笠を含む第一艦隊、上村彦之丞が率いる第二艦隊から成り、廣瀬の乗組む戦艦・朝日は、三笠に次ぐ第一艦隊の主力艦だった。
当時の日本の海軍力は約二十三万トン。戦艦は三笠、朝日のほか、富士、八島、敷島、初潮の六艦に過ぎない。そのすべてが第一艦隊に組み込まれ、第二艦隊の旗艦を務める出雲は巡洋艦である。朝日に乗り込む廣瀬の高揚がどんなものだったか、この一事でも分かる気がする。
旅順に向かった連合艦隊主力は八日夜、駆逐艦隊を旅順港内に潜行させ、ロシアの戦艦・ツェザレヴィチ、レトウィザンと巡洋艦・パールラーダに大きな打撃を与えた。九日には旅順港内に、艦隊の総力で砲撃を行ったが、旅順要塞の陸砲による反撃にあい、さしたる戦果は上らなかった。
攻勢をかけたにのかかわらず、日本側の損害は大きかった。三笠と富士、敷島、初瀬がかなり砲弾を受けた。特に三笠は数発の直撃弾を受け、後部艦橋の一分が懐中に落下した。死傷者は全部で五十八人である。
日本の戦略の要諦は、旅順を中心に展開するロシア太平洋艦隊を、バルチック艦隊が大西洋側から来航する前に全滅させることである。そのためにはロシア艦隊を旅順港内で壊滅させるか、港外に誘い出して一大海戦に持ち込まねばならない。こうした事情から八回に及ぶ旅順口攻撃を敢行したが、ことごとく要塞砲の威力に屈する形になった。
ロシア側の戦略も一貫していた。八日の攻撃を受けた直後、極東総督のアレクセーエフは会議を開き、欧州からの増援艦隊が到着するまで、旅順に艦隊は港内で温存し、港外で日本艦隊と応戦するのは巡洋艦と水雷艇のみとする方針を決定したのである。日本艦艇の侵入を防ぐ為に、旅順港口から港外にかけて、機雷を敷設することもその時決めた。
連合艦隊は困った。時間はロシア側の味方である。ロシア太平洋艦隊が健在のうちにバルチック艦隊が来航すれば、倍以上の敵と戦う羽目になる。そのために焦って攻めるが、艦砲は射程距離といい、正確度といい、陸砲の敵ではない。波で砲口が定まりにくい艦砲では、要塞砲に太刀打ちできないのである。
「港口閉塞以外に手はない」
連合艦隊司令部の考えは次第に、そこに固まっていった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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