= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 七 章 シ ベ リ ア 横 断 (六)

この秘めたる決意があったからか、廣瀬は帰国の途中で、旅順に駐在するロシア極東総督、エブゲーニイ・アレクセーエフの官邸に訪れている。三月十九日のkとである。アレクセーエフは、ロシアが清国から租借した関東州の駐留軍司令官と太平洋艦隊司令長官えお務め、義和団の乱に乗じて満州の占領に成功した人物である。その功で極東総督になり、その後は日本に対して、露骨な敵視政策を取っていた。
こうした経歴を見れば、廣瀬を歓迎するとは思えないが、実際には表敬訪問した廣瀬と昼食をともにし、ペテルブルグでの経験談などを喜んで聞いたという。親友・財部毅の縁談の事で山本権兵衛に直談判に行ったような、廣瀬の度胸と人柄が気に入ったのだろうか。あるいは当時の大国ロシアは、小国日本がよもや戦争に踏み切るとは、開戦の直前まで考えていなかったというから、それ相応の鷹揚さを見せたのかもしれない。いずれにせよ、興味深い会談である。
廣瀬はその日のうちに、東清鉄道会社の 「シルカ号」 に乗船し、翌朝、長崎に向けて出港した。
ロシアが、日本との開戦を予想していないとじゃいえ、そこまでの廣瀬には、ロシアの監視の目が注がれていたらしい。
川上夫婦と別れて満州を通過する間、三度の検査を受けた。ニコライ二世の名が入った例の旅券が力を発揮したことは言うまでもない。それでもハルピンを出た後、食堂で食事中にロシアの陸軍将校の執拗な尋問を受けたという。旅順が近くなってからは、旅順口鎮守府から派遣されたと見られるロシアの海軍士官がつきまとって、うるさく監視した。
日露の緊張は高まり、その接点は間違いなく、旅順だった。廣瀬が、日本の連合艦隊の一員として奮闘し、落命するのもこの旅順である。そこが、四年五ヶ月に及ぶ廣瀬のロシア生活最後の地となったことは、なんとも運命的である。
佐世保に帰国し、東京に帰着したのは明治三十五年三月二十八日である。四月六日には父、重武の一周忌のため郷里・竹田に帰った。祖母も、療養中だった異母弟の吉夫も、廣瀬のロシア滞在中に没して、すでにいない。久しぶりに見る実家は、寂しいものだったに違いない。
この帰国の際に、廣瀬の義理堅くユーモラスな人柄をしのばせる逸話が、 『廣瀬武夫─旅順に散った 「海のサムライ」 』 に載っているので紹介したい。
廣瀬は留学前の艦隊勤務のころ、大阪・江戸堀にある 「竹の屋」 という宿を定宿にしていた。ロシアに留学する直前、宿の女将の川村タケが廣瀬に頼んだ。
「ロシアからお帰りになる時には、名物の更紗を土産にお願いしますよ」
「わかった」
廣瀬は竹田への帰省の折、大阪に立ち寄って 「竹の屋」 を訪ね、玄関に出迎えたタケに更紗を差し出した。
「それ、約束のものだ」
タケは廣瀬との約束を、その時に思い出したという。五年近く前の廣瀬の応答があまりにも無造作だったし、タケ自身も冗談話のように思っていたからである。
更紗を置くと、あわただしく立ち去った廣瀬に、タカは礼を言うのも忘れるぐらいあっけにとられ、徐々に感動したという。
竹田から東京に帰った四月二十二日、廣瀬は正式にロシア駐在を免ぜられ、戦艦・朝日の水雷長兼分隊長に任ぜられた。英国で再会した秋山真之とともに、建造中を視察した船である。排水量一万五千四百四十三トン、速力十八ノット。十二インチ砲四門と速射砲四十六門を装備する最新式の一等戦艦。一年半前に英国から横須賀に回航されたばかりだった。
艦長は三須宗太郎大佐、砲術長は兵学校同期の竹下勇少佐が務めていた。廣瀬は大艦に乗り込めたことがうれしくて仕方なかった。水雷屋として研鑽してきたから、水雷長という職務も気に入った。 「水雷長」 。部下にそう呼ばれる時が何よりうれしかった。旅順口閉塞作戦で廣瀬の体が海中に消えた時、部下たちが廣瀬を探して口々に叫んだ言葉も 「水雷長」 だった。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ