= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 六 章 竹 田 の 廣 瀬 家 (六)

廣瀬にしても、国のために命をささげる軍人には妻子は不要と、生涯独身を貫いている。
そもそも武家とは、鎌倉の昔から一所懸命で所領を守り、それを子孫に継がせるために戦いに出るものである。所領を守ってくれない主人や、実力を正当に評価して処遇してくれない主はさっさと見切り、我欲のために生きるのが武士というものだ。好例が、廣瀬家の主、中川家に養子に来た久昭の実家、藤堂家の家祖である高虎である。高虎は正当な評価、所領を求めて七度、主を変えたという武将であり、その果実を子孫に確実に残すため、徳川家康に急接近した事はしでに紹介した。
言ってみれば、武家とは、我欲の為に戦う人たちであり、廣瀬らのように無私に戦える人は武家ではあるまい。武士道、侍という言葉で簡単に評し得ない人格が明治期には育っていたと思えてならない。
乃木についてさらに触れる。保典が戦死した時、母親で乃木の妻、静子は 「よう死んでくれた」 と、気丈に言ったと伝わっている。乃木も日露戦争が終わってから、多くの犠牲者を出した責任を取るため切腹を申し出、明治天皇に制止されたという。この二人に見られるのは、家よりも国民に対する責任感である。
乃木は、明治天皇から、自分の子供だと思って育てるように、と諭されて学習院の院長を務めている。その後、明治天皇が崩御した時に静子ともども自決した。 自分が死ぬまで、死ぬことはまかりならん」 と言われた明治天皇の言葉を守った最期だった。
廣瀬は、決死の旅順口閉塞作戦に向かう際、明治天皇の手が触れた礼服用の手袋を持参し、部下たちを鼓舞したことがある。手袋は明治二十七年四月十七日、明治天皇が夫妻で横須賀を訪れた際、桟橋で出迎えた廣瀬がしていたものだ。その時偶然に、天皇の手が廣瀬の左手に当ったのである。

(かかる勿体なきことは、恐らくは一生一代にして、わが家においても、廣瀬の姓を名乗って以来、又頑児武夫を以って初めてのことと存じ候)
家族にそう報告した廣瀬は、手袋を紙に包んで大事に保管していたのである。旅順口閉塞作戦において、廣瀬の訓示はこんな言葉だった。
「日清戦争中は無論、露国留学中、満州旅行中乃至は短艇競漕のときでも、陸上競技のときでも、常にこれを懐中にして奉公に励んできた。陛下の御稜威によって何事でも成し遂げ得らるもの、またこの手袋には霊が入っていて、常に自分のやることを照覧ましましてござるということを確信している」
尊王の意思が強烈な事が、この時期の日本人の特徴と理解しないと、乃木や廣瀬の言動を理解し得ない。その価値観の前には、我欲で家を守る武家本来の価値観は影が薄かったのである。
乃木にしろ廣瀬にしろ、軍神と崇められて今も神社が残る。彼らを神として敬う気持は、無視に徹した明治の武士道に現代人も感動するところがある故に生まれるものだろう。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ