= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 四 章 日 清 戦 争 (二)

廣瀬の兄、勝比古は巡洋艦・浪速の砲術長として、黄海海戦で腕を振るった。それがまた、廣瀬にはうらやましくてならない。ちなみに浪速の艦長は東郷平八郎で、日露戦争の際には連合艦隊司令長官として、廣瀬との深い縁ができる人物である。
英国留学の経験もあって、近代的な海軍士官の走りとも言えた東郷には、その国際人ぶりを示す逸話がある。黄海海戦に先立つ豊島沖の海戦での事である。日本側は浪速のほか、吉野、秋津洲の巡洋艦三隻が遊弋中に清国の巡洋艦・済遠と砲艦・広乙と砲撃戦なった。兵力で劣る清側は広乙が座礁して戦力を失い、済遠が戦場離脱を図った。それを追う浪速の視界に、大型汽船が入ったことが事件の始まりだった。
汽船には英国船籍の高陞号で、甲板に清国兵を満載していた。
「直ちに停船して投錨せよ」
東郷は、信号旗を掲げて、そう命じた。浪速からボートが下ろされ、士官が高陞号に行って舟を捨てるように命じた。清国兵はそれに反対し、英国人船長や乗組員を脅して下船を拒否させた。
二時間以上の説得の末、浪速から魚雷が発射され、砲撃も始まって、高陞号は沈没した。後に英国政府から厳重な抗議があり、日本政府をあわてさせたが、その措置が国際法に則って少しの落度もないことがわかり、東郷の名を上げることになった。東郷の命令のもと、この攻撃一切を指揮したのが廣瀬の兄、勝比古である。
しばらくして廣瀬は、浪速に勝比古を訪ねる機会に恵まれた。
「高陞号の時はさしずめ、兄さんが直接手を下した犯人ちゅうことじゃろう」
いつものユーモア交じりに廣瀬が聞くと勝比古は実直に答えた。
「うん。しかし、艦長の命令通り、おれはただ、正確に砲撃してあの船を沈めただけじゃ」
そう言った後、言葉の調子を少し変えて付け加えた。
「(あまりに交渉が進まんことに) 癪にさわっちょったから、みんなあれが沈むと、手をたたいて喜んでのう」
軍人としての働き場を求める廣瀬が、軍艦・扶桑の航海士を命ぜられたのは、勝比古と語り合った数日後だった。

(頑児武夫は今夜実に踊躍すべきの辞令に接せり。軍艦に乗り込み海軍軍人の任務を尽くすことを得るの時機来れり)
家族への手紙にはその時の喜びが、素直に書かれている。
扶桑その後の編成替えで第二遊撃隊の旗艦となった。いよいよ大海戦に参加できると奮い立った廣瀬は辞世を作っていた。
扶桑ニ生キ
扶桑ニ死セン
一死アルノミ
七生皇ヲ護ラン
ところが、黄海海戦後の北洋艦隊は山東半島の威海衛にこもり、決戦を避けた。旅順の要塞をわずか一日で陥した日本陸軍は、陸路で威海衛に迫ると共に、連合艦隊は水雷艇部隊を港内に進入させて定遠、威遠などの北洋艦隊主力を撃沈した。
攻撃から十四日目で北洋艦隊は降伏した。艦隊決戦がなかったために、廣瀬の活躍する場はなかったが、威海衛占領後に大きな任務を与えられた。捕獲した鎮遠を旅順に回航する指揮を任されたのである。鎮遠は七千三百トン。連合艦隊では旗艦の松島さえ四千三百トンに過ぎなかったから、初めての巨艦を操艦することになる。
(責任の大と心中の快とにかき乱され、なかなか夢も結び兼ね候。呵々)
この大仕事を終えた後、廣瀬は大尉に昇進し、横須賀水雷隊攻撃部艇長を命ぜられた。水雷艇乗り組みはその後、一年二ヶ月続き、その間に日清戦争は終わった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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