= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 二 章 海 軍 兵 学 校 (三)

その翌年の九月の新学期、海軍兵学校は広島・江田島に移転した。急速な近代化を至上命題にした明治の日本は、一流好みの模倣国家である。お雇いの外国人の指導を仰ぎ、その技術や文化を直輸入する事で、一足飛びに欧米に追いつこうとした。
海軍兵学校の移転先に江田島が選ばれたのは、英国の海軍兵学校があるダートマスに地形や気候が似ていたからだと言う。当時の英国は、日本同様に小さな島国ながら、大艦隊と商船団によって世界の大国の位置を占めていた。
その英国に倣って造られた海軍兵学校の校舎は、英国の建築技師が輸入レンガを使って建てた。言うまでもなく英国製レンガで、一個二十銭だったという。大工の日当が十銭のこの時代のことである。
赤レンガが美しい生徒館は明治二十六年に完成した。今は海上自衛隊の幹部候補生学校sとして使われている。筆者も取材で何度か訪れたことがあるが、一世紀以上経っているとは思えない堅固さである。一流は世紀を超えて残る。明治人の国造りに懸ける熱意、執念のようなものさえ感じる建物である。
築地の時からそうだったが、海軍兵学校での公的言語はほとんどが英語だった。教科書は原書で、英国人教官の授業も英語、号令も大半が英語だった。
食事も無論、洋食である。カレーライスやビーフシチューが出た。ブイーフシチューに関しては、明治の海軍から伝わる逸話が海上自衛隊にある。英国への留学経験がある東郷平八郎がビーフシチューを懐かしみ、勤務する鎮守府で所望したところ、レシピが十分にわからず、出来上がったのが肉じゃがだったというのである。その発祥の地、つまり当時の東郷の勤務地が舞鶴か、呉か。町おこしを狙う自治体の間で論争になっている。
ちなみに、東郷は、ダートマスとの海軍兵学校に留学する予定だったが、英国側が許可せず、テムズ河畔の商船学校で商船教育を受けた。水夫待遇だったという。明治初期の日本は世界ではまだ、こういう扱いだったのである。廣瀬の入校した兵学校は、こうした歴史を背負っている。 「お前たちは留学する必要がない」 。日本人教官たちがそう言うのは、それだけの施設と教育課程を英国から輸入したという自負であったのだろう。
海軍兵学校最後の半年を過ごす江田島を、廣瀬は気に入らなかった。病み上がりの体に気候が合わなかったらしい。

(気候の不順なるは実に困却仕り候。日中にて正午と朝とは二十度内外温度の差有之候。ある人の言葉に、江田島にては温と涼とはなく、ただ熱と寒のみとは穿ち得たる言と考えられ候。病人には彼の忌むべき肋膜炎多く御座候)
飛騨・高山の厳しい気候にさえ弱音を吐かなかった廣瀬にしては、何とも気の弱い文面である。頑健自慢だけに、三ヶ月の入院生活がよほど堪えていたのだろうか。軍神・廣瀬のわずか一時期の、興味深い心理である。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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