= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 二 章 海 軍 兵 学 校 (一)

廣瀬の海軍兵学校入校は明治十八年十二月一日である。入試は九月二十六日より始まり、二百五十三人が志願した。まずは体格検査があり、合格した百六十五人が十日間の学科試験を受けた。合格者は五十二人。これに六月の試験に合格していた五人を加えた五十七人が東京・築地の兵学校に入校した。
志願者数といい、入校者といい、その後の海軍兵学校、特に昭和の兵学校とは桁が違う。広瀬たちは兵学校十五期になる。日本の海軍はまだ、黎明期を迎えたばかりなのである。
合格者を今の都道府県別に並べてみたい。
山県△宮城△栃木△茨城二人△新潟△群馬二人△東京五人△長野二人△神奈川二人△静岡二人愛知二人△福井二人△石川四人△京都二人△和歌山△兵庫△広島二人△山口四人△愛媛△高知△佐賀九人△長崎△宮崎△大分△鹿児島四人。大分の一人が言うまでもなく、廣瀬である。
福井県出身者には、後に総理大臣になる岡田啓介がいた。宮崎出身は、廣瀬と気が合い、後に海軍大臣になる財部たからべ たけし である。この期は後に、海軍大臣だけでも四人を輩出した。海軍兵学校は文字通りのエリート集団であった。
出身地を見て興味深い事がある。明治初頭の軍は 「長 (州) の陸軍、薩 (摩) の海軍」 と言われるほど藩閥が幅を利かせた。しかし、この明治十八年の入校者を見ると、さすがに鹿児島は多いが、山口も同数。一番多いのは薩長土肥の肥、つまり佐賀だし、他は全国各地から広く集まったという印象である。海軍は既に、俊英を全国から集める実力主義が定着していたのだろう。
しかしながら、江戸の空気はまだ色濃く残っていた。
(校中にても、なお旧習を脱せず、旧藩屏の弊全く去らず、同県人とか同郷人とかとて他県人を外にするように見受け候。現に十六日の集会の時にも、同郷人ならば親睦せんも、他郷人は云々とか申し出しし人も有之候。後来こうらい 国家の為、実に梗概こうがい に堪えざる義にて・・・・)
廣瀬の家族に宛てた手紙である。要するに、同期でありながら同県人や同郷人としか言葉を交わさない生徒が多いと嘆き、これでは将来、国家の為にならない愁えているのである。
廣瀬は有志を募って近くの寺で集会を開き、共同して軍規風紀の是正に努めることを申し合わせた。艦に乗り込めば運命共同体である。生きるも死ぬも一緒が海軍のはずだが、わざわざこんな申し合わせをしなければならなかったことも明治の一面である。明治二十年十月十六日のことだったという。

『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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