= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 十二 章 軍 神 余 話 (二)

妻子を残して旅順に散った杉野もまた、軍神として賞賛の対象になった。杉野の武勲や人柄は修身の教科書の載ったほか、昭和九年には浪曲 「杉野兵曹長の妻」 が発表されてヒットした。十一年には海軍省の後援で映画 『護国の母』 が制作された。この顕彰の動きには、銃後を守る国民意識の高揚が国策としてうかがえるのが特徴である。
実際には、遺児三人を抱えた柳子の生活は困難を極めた。杉野を失った時、三人の息子は七歳と四歳、二歳である。一家四人は最初、杉野の郷里に移り住んだが、遺族扶助金だけでは生活できず、柳子の故郷、津市に移って和裁仕立ての内職で生計を立てた。
杉野の葬儀から三年後の明治四十年、こんな逸話が残っている。
津市で政府主催の産業共進会、今で言う産業振興会のようなものが開かれ、柳子は会場係に雇われた。皇族の視察があり、案内に立った主催者が柳子を指し、杉野兵曹長の妻であることを説明した。
「そのような勇士の妻を会場係とは、勇士に対する礼ではない。何か援助の方法はないものか」
皇族の指摘に主催者はあわてて、三重県と相談した。柳子は津高等女学校の出身だったので、当時の校長の清水誠吾と相談して、同校の嘱託として裁縫を教えてもらうのが良策と決めた。
その申し出を受けた柳子は、以外にも断った。
「私のような資格も技量もない者が、そのような特別の恩恵を受けるのは心苦しいことです」
ただ断っただけでなく、翌年四月には三人の子供を連れて上京し、シンガーミシン裁縫女学校に入学した。生活に苦しい境遇に変りはないから、昼は女学校に通い、夜は内職して子供たちを養育するという生活である。
無事に教師の資格を取ると、津市に帰って改めて、津高等女学校の教職に就いた。その人となりが、浪曲や映画になっても恥じることのないものだったことは、この一事でわかる。
長男の修一と次男の健次は父の遺志を継いで、津中学校から海軍兵学校に進んだ。修一は少尉候補生になった時、同期生らとともに旅順を訪れ、港にあった閉塞隊記念碑の前に立ったことがある。一同はそこで唱歌の 「廣瀬中佐」 を歌った。
「あの時は、私も気が進まぬながらも、一同と諸共に歌い始めました。呼べども答へず捜せどみえず、のところになりますと、もうこらえかねて嗚咽にひっかかって声は出ませんでした。船は次第に波間に沈み、と歌う声が耳に入った時、常に母に言い聞かされていました父の戦死の状況が、目の当りに現れてくるような気がして、今さらのようですが、逝きし父親が懐かしく、卑怯ながら声を放って泣きました」
後年の修一の言葉である。修一に柳子は、こんな手紙江を出している。
(これからはお前の心一つ。いつまでも旅順で父上の御戦死の跡を弔った時の心持を忘れないで、世間の人から 「さすが勇士杉野の子よ」 と言はれるように心掛けて下さい。それが母に対する第一の慰めにもなりませう。ただ一つの恨みは、母もお前と一緒にその場に居て、父上の為になくことができなかったことです)
柳子は大正十一年五月三十一日に四十四歳で病没した。修一はその後、海軍で大佐まで進み、昭和二十年には旅順で方面特別根拠地の教育部長 (校長) として、学徒出陣兵らの指導に当った。訓練の一部としてスケートを奨励するなど柔軟な思考の持ち主で、一度も部下を叱ったことがない温厚な士官だった。
終戦間際、日本海軍が保有いていた戦艦十二隻の中で唯一健在だった長門の艦長を命じられたが、赴任する間もなく終戦になった。それでも三十二代目、長門最後の艦長としてその名が記録に残っている。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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