= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 十一 章 軍 神 (四)

軍神という言葉について考えたい。明治三十七年四月十八日発行の 『日露戦争実記』 にはすでにこの語が使われているが、作家の上坂紀夫の調査によると、廣瀬に対してこの冠が付いたのは連合艦隊副官の永田泰次郎 (少佐) が、廣瀬の死の二日後に出した手紙が最初だという。
軍令部参謀で、廣瀬の海軍兵学校同期の財部彪らに宛てた手紙に、こんな件がある。

(ある人叫んで曰く、軍神と唱ふ。之れ敢て過言に非ざるべき事と信ず。願わくば、今後永久に同氏 (廣瀬) の海軍に貢献せられし逸事を没却せず、模範軍人として後世に貽さるるの手段を予め講じ置かんことを希望す)
財部は早々、義捐金を募集して廣瀬を顕彰する銅像か記念碑の建立を呼びかけた。東京日日新聞が賛同して、社告で協力を呼びかけた。またたく間に三千二百四十二円が集まったという。これに他の拠出金を合わせ、計二万千五百五十円の予算で銅像の建設が始まった。
完成は明治四十三年五月二十九日である。東京・須田町の万世橋近くに出来上がったのは、船倉で救助を待つ杉野を、廣瀬が 「杉野」 と叫びながら、懸命に捜索する姿を表現していた。高さが十一メートルもある、堂々たるものだった。
作者は当時の新進彫刻家、渡辺長男と朝倉文夫である。二人は兄弟で、兄の渡辺が廣瀬を、弟の朝倉が杉野を製作した。兄弟は廣瀬の郷里、竹田 (大分) の出身だった。
この銅像は神田に名物として修学旅行のコースにも織り込まれるようになった。毎年、廣瀬の命日には洗浄式が、地元を挙げて大々的に行われたという。
しかし昭和二十一年十一月、警視総監名で撤去が命じられ、翌年六月にどこかに運び去られてから行方がわからない。撤去は進駐軍への配慮から行われたというが、真偽の程は今もわかっていない。
廣瀬を顕彰するものとして戦前は、廣瀬の文字 「決死隊」 を残した記念碑が大阪。住吉大社の境内にあった。
日露戦争の終結後、旅順港で閉塞船の引き揚げ作業が行われた。福井丸の船体を調べたところ、舷側に 「決死隊」 とペンキで書かれているのが見つかった。一文字が一メートル四方もある豪快な文字で、生き残った隊員らの証言から、廣瀬が出撃前に書いたものと判明した。
このまま鉄くずになることを惜しんだ人が海軍の許可を得て切り取り、日本に送った。その後、大分県出身者らが中心になって義捐金を募り、全高約六メートルの記念碑として甦らせた。完成は明治四十五年六月。文学博士・西村時彦の撰文が、石板ではめこまれていたという。
安置場所に住吉大社が選ばれたのは、海にゆかりの神社だったからだが、この記念碑もまた戦後、進駐軍への配慮から撤去され、今はない。
ここまで進駐軍に気を遣ったのは、昭和の軍部が軍神を乱造し、軍国美談を奨励して、国民を戦場に駆り立てた一面があるからだろう。太平洋戦争末期には、生命を投げ出すように戦場に散った軍人にはほぼ例外なく、軍神の美名が冠せられた。
明治の軍、それも海軍では、その言葉を使うのはまだまだ限定的だった。海軍の三軍神と呼ばれるのは、廣瀬のほか佐久間勉、東郷平八郎である。佐久間は明治四十三年、山口県新港 (岩国港) 沖で潜航訓練中、事故死した潜水艇艇長で、酸素不足で殉職する直前まで艇内の様子や事故の原因、部下の遺族の補償のことなどを克明に書き残した大尉である。
東郷は、連合艦隊司令長官として日本海海戦を完勝に導くなど、日露戦争で活躍した提督で、海軍兵学校の跡地にある海上自衛隊の教育参考館 (広島県江田島市) には東郷の遺髪が納められた部屋が今も大切に保存されている。そこへ続く階段には絨毯が敷き詰められ、兵学校の生徒らは靴を脱いで、その階段を上るほどの敬意を払った。
三人に共通するのは、ヒューマニズムである。もし現代、この人たちの悲劇や偉業があったとしたら、間違いなく賞賛を受けたのではないか。そんなことを想像するにつけ、廣瀬の銅像や記念碑を撤去したことが、早まったことと思えてならない。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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