= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 十 章 旅 順 口 (四)

廣瀬を襲ったのは速射砲弾だったと推定される。それが後頭部を直撃し、廣瀬の吹き飛ばしたのである。廣瀬が座っていた場所には、銅貨大の肉片と、血に染まった海図が残っていただけだった。
粟田も廣瀬の地を浴びていた。上着のほか顔の右半分と帽子が真っ赤だった。廣瀬の前でオールを握っていた沓澤二等機関兵の衣服も鮮血に染まっていた。
ともあれ、これからは危地を脱した後にわかったことである。水雷長被弾の報告に驚いて立ち上がった粟田の右足を銃弾が貫いた。次いで、菅波二等信号兵曹が 「やられた」 と叫び、前のめりになった。菅波は腰と左足に被弾して、近く隊員が横にして介抱したが、出血がひどかった。
さらには塚本二等機関兵、中條一等機関兵が被弾した。隊員が撃たれる度にカッター内には恐怖が広がる。オールを漕ぐ力が鈍る上に、漕ぎ手が次々に減るものだから、速力が出ない。カッターが危地を抜け出すまでには結局、二時間以上がかかった。
福井丸の隊員が衛艇・霞に発見され、収容されたのは午前六時三十分である。この部隊は負傷者が多いということで、霞は戦艦・朝日に横付けされ、担架で艦内に収容した。移乗後、菅波が息を引き取った。死の直前に、天皇陛下万歳と三唱したという。
福井丸の損害は結局、戦死三人、行方不明一人、負傷四人だった。他の三隻では重軽傷者計六人で、戦死者はいまかった。
廣瀬の戦死は、三月二十七日午前四時三十分と記録された。ちょうど三十五年と十ヶ月の生涯だった。戦死の前日二十六日付を以って、少佐から中佐に昇進した。杉野も一等兵曹から兵曹長になった。

(戦死者中福井丸の廣瀬中佐及び杉野兵曹長の最後は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に点火するため船倉に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以って、遂に戦死せるものの如く、廣瀬中佐は乗員を端舟に乗移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるらめ、自ら三たび船内を捜索したるも、船体次第に沈没、海水上甲板に達せるを以って、止むを得ず端舟に下り、本船を離れ、敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して、海中に墜落したるものなり。中佐は平時に於いても、常に軍人の亀鑑たるのみならず、其の最後に於いても、万世不滅の好鑑を残せるものと謂うべし)
連合艦隊司令長官の東郷平八郎が本国に対して、第二次旅順口閉塞隊について報告した文章の一節である。
この攻撃から数日後、旅順港口の海岸に日本軍人の遺体が漂着した。服装から士官であろうと考えて、ロシア側は手厚く葬ったという。その経緯は新聞 「関東報」 に北京発の記事として四月九日に掲載されている。
(アレクイセーエフ (ロシア極東総督) は四月一日、旅順において日本海軍将校の葬儀を営めり。当時将校及び水夫これを見送り、楽隊を附せり。この将校は福井丸の船首の海上に浮かびしものにて、頭部に砲弾を受け大傷あり、その深さ一寸。外套の袖に金線あり、頸には皮紐にて望遠鏡を掛け、ポケットに短剣を蔵し居れり)
おそらくは廣瀬の遺体であっただろうが、常に内ポケットの忍ばせていた、アリアズナからの銀時計は海中に沈んだのだろうか。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
Next