= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 十 章 旅 順 口 (三)

廣瀬たち福井丸の乗員十七人を乗せたカッターは急ぎ、旅順港口を離れようとした。敵の駆逐艦や砲艦、要塞砲から放たれる砲銃弾はあたりに落下し、カッターの周辺は海は煮えたぎるようだった
閉塞船の先頭だった千代丸が敵に発見され、殿の米丸が沈没するまでの時間は、わずか二十分だった。閉塞隊員たちを収容するため、付近を航行していた水雷艇にも、シーリヌイは盛んに発砲したが、福井丸の衛艇だった水雷艇・燕が発射した魚雷が機関に命中し、シーリヌイは海岸に座礁した。
午前四時二十分、燕は弥彦丸と千代丸の隊員を収容し、沖合いに逃れた。米山丸の隊員を水雷艇・鵲が発見し、収容したのは午前五時五十分だ。雁や真鶴など水雷艇四隻が周辺海域で懸命に、福井丸の隊員を捜索した。
それに前後して、廣瀬らは懸命の¥にカッターを漕いで、沈み行く福井丸から離れようとしていた。避難するカッターは福井丸が最後になったため、ロシア側の砲火が集中した。
廣瀬はカッターの右舷最後部に、オーバーの上に丸合羽を羽織って座っていた。手には海図を持っていた。廣瀬の左隣の艇長の位置には飯牟礼が座って舵を取った。左舷側には粟田が座った。
四、五分漕ぎ出したころ、左舷に一隻の閉塞船が横たわっているのが見えた。可能な限りこれに隠れてカッターを漕いだが、閉塞船の船尾を過ぎるころに探照灯を真上から浴びせられた。
あわてて 「えい、えい」 と声を合わせて隊員は懸命に漕いだが、運悪く上げ潮に逆らい、遅々として進まない。カッターの周辺に豪雨のように砲銃弾が降り注いだ。
最初はオール二丁が打ち砕かれた。次いでカッターの前部から叫び声が上った。
「小池がやられました」
小池二等機関兵は、胸を打ち抜かれて即死した。カッター内に恐怖が広がった。
「わかった。わかったから、もう騒ぐな」
廣瀬は立ち上がり、さらに言った。
「いいか。しっかり漕ぐんだ。心配することはない。みな、よくおれの顔を見て、しっかり漕げ」
次の瞬間、粟田の前でオールを握っていた山本二等機関兵の顔が真っ赤に染まった。探照灯に時折、その顔がはっきり浮かび上がり、死人のようにも見えた。
山本もとうとうやられたか。粟田はそう思い、それでもオールを漕いでいる山本に加勢した。
「そら、しっかり漕ぐんだ。しっかり」
ほんの一瞬を置いて、カッターの中央部あたりから悲鳴に近い声が上った。
「水雷長がやられた」
粟田が驚き、右を見ると、廣瀬の姿がなかった。二人の間に座っていた飯牟礼も全く気付いていなかった。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ
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