= = 『 評 伝 廣 瀬 武 夫 』 = =

著:安本 寿 ヨ リ


  
 ── 評 伝 広 瀬 武 夫 ──

第 一 章 維 新 の 子 (六)

その古武士然とした山県が、廣瀬に紹介したものが柔道だった。当時、東京。下谷稲荷町の永昌寺に設立されたばかりの講道館への入門を熱心に勧めた。
廣瀬は、ひと目見て、その魅力に取り付かれたと言っていい。館長の嘉納治五郎は小柄な人だったが、その体格で大男たちを何の造作もなく投げ飛ばす。その姿に魅了されて、すぐに入門。講道館通いは海軍兵学校卒業後も続いた。
健啖家の廣瀬は決して小柄ではない。兵学校を卒業する頃には身長は一メートル七十一センチ、体重は七十五キロだった。この体格で柔道の極意を会得し、持ち前の負けず嫌いを発揮すればどうなるか。その答えは次の逸話である。
明治二十三年十二月十二日。海軍少尉候補生として軍艦・海門に乗り組んでいた廣瀬は、たまたま艦が東京・品川沖に碇泊中だったこともあって、初めての試合になる講道館紅白大試合に出場した。勉学とその後の艦上生活で稽古量が本意でなかった廣瀬は当時、初段である。紅白に分かれた勝ち残り戦で、廣瀬の属した紅組は残り四人に追い込まれた。敵の白組は九人残り。 「とても紅の見込みありそうもなく」 と廣瀬は、畳に上る心境を重武への手紙に書いている。
一人目の湯原桃雄初段は小外刈で破った。一、二度稽古をしたことがある相手だったので、いくらか余裕があった。二番手の武股欽明初段は、得意の押さえ込みを仕掛けてきたが、自分ほどの体格を押さえ込める者は講道館初段には少ない、と考えた廣瀬は落ち着いていた。態勢をひっくり返して上四方固めで一本を取った。
三人目は峰新太郎初段。立ち回りの巧者らしく、勝負を避けて引き分けに持ち込む作戦に出た。十三分が経って残り二分となってから 「獅子奮迅の勢いにて道場を三回ほど追い回し」 、残り二、三十秒のところで大腰で仕留めた。四人目は強敵・広岡勇司である。廣瀬と同じ初段だが、元関口流の免許取りというベテランだ。疲れの見える廣瀬に朽木倒しをかけ、廣瀬は 「六部の勝ちを占められた」 と書いている。それを夢中でかけた小内刈で帳消しにし、残り二分の声を聞く中、これのはっきり覚えていない内股で一本勝ちした。
五人目の下条虎次郎初段は、講道館初段中一と呼ばれた実力者である。試合開始から攻勢に出て盛んに得意の背負い投げをかけ、疲労している廣瀬を脅かした。共倒れがやっとの廣瀬だったが、下条の重心が浮いたわずかな好機を見逃さなかった。得意の俵投げが見事に決まり一本。五人抜きを達成した。
(この俵投げは私の得意の手で、同門の諸君は私が海軍にいますので、大砲と名づけたものであります。私は初めからしばしば、これを仕掛けましたが、敵も能くこれを知っており、参観者よりも 「そら大砲」 とか 「おおづつ」 とか呼び立てて、敵に備えをなさしまたため、今まで一つも効果を示しませんでしたが、今、下条氏に心地良きまで掛かりし故、道場内の拍手喝采、さながら潮の湧くがごとく動揺しました)
試合後、廣瀬が重武に出した手紙の一分である。ここで紹介した廣瀬の試合ぶりはすべて、この手紙を元に再現した。廣瀬は生涯に二千通以上の手紙を書いた文章家だが、客観的な報告文として優れたものが多い。さらにはユーモアにあふれているのも特徴である。ちなみに、膨大な手紙の約四分の一、五百通近くは郷里に送られたものだった。死と隣り合わせの軍人となって、生涯妻帯しなかった廣瀬だが、家族への思いは人並み以上のものがあったのである。
試合は六人目の馬場七五二段が決戦を避けるが如き老獪な作戦で、時間切れの引き分けに持ち込んだ。廣瀬が畳上で戦ったのは休息無しで五十分余り。紅組の選手らは廣瀬を喝采で迎え、担ぎ上げて退場させた。
試合後、廣瀬は二弾昇格を許され、 「目覚しき働きをなしたるものは廣瀬候補生なり、講道館始まって以来未曽有のことまり」 と持て囃されたという。 「愉快限りなし」 これもまた、重武への手紙の一説である。
『評伝 廣瀬武夫』 著:安本 寿久 発行所:産経新聞出版 ヨ リ